百五十八 五世清元延寿太夫の生立(下)(下巻37頁)
(注・157・五世清元延寿太夫の生立(上)からの続き)
斎藤家の主婦、お藤は、庄吉の教育についてひそかに心を配っており、高田馬場のような片田舎に長いこと置いておくのは本人のためにならないとして、庄吉は十一歳のころから神田皆川町の親戚のところに預けられることになった。
ここでいろいろな修業をさせ明治九(1876)年、庄吉が十五歳のときに、そのころ兜町に創立された三井物産会社の小僧として住み込ませることにした。
当時小僧はひとりだったから「庄吉は、三井物産における小僧の家元だといってもよかろう」と後年、本人が冗談で言っていたものだ。
十九歳で、庄吉は三井物産の横浜支店に転勤した。そのため当時支店長だった馬越恭平氏との親密な関係がうまれた。弟の兼次郎が富貴楼の養子になっていて、またそのころの富貴楼には伊藤、井上、大隈をはじめとする高官や紳商の会合が頻繁におこなわれていたので、庄吉もしじゅう富貴楼の家に出入りしていた。
あるとき、琴の名手だった中能島松声と清元お葉とが、「お菊幸助」を掛け合いで語ったことがあった。あの「白山さんに願かけて」のくだりに来たとき、甲高いほうを中能島が、低いほうを、お葉が唄った。その美声といい節回しといい、得も言われぬ妙味があったのに感じ入り、庄吉自身も清元が大好きになり、このときから清元の門にはいったのである。このときさかんに研鑽したことが、後年に家元になる素地を作ったということである。
庄吉は二十四歳になるまでの足かけ十年、三井物産会社で奉公していた。そのころ横浜ではドル相場が流行し、多少の山っ気があれば、ほとんど誰でも相場に賭けてみるという状況だった。それで庄吉もたまたまやってみたところ、とんとん拍子で当たりまくり、一時は五、六万の大金を握るまでになった。
それで奉公しているのが馬鹿馬鹿しくなり、血気盛んな年ごろだったこともあり、それから二十九歳までは、あらん限りの道楽をやり尽くしたそうだ。そのころは、一年に一万円も使えば大尽風を吹かすことができた時代だったので、自分の好きな清元お葉や先代梅吉などをひいきにして、彼らを座敷に招いたりもした。
ある晩、お葉、梅吉などの清元連中を誘って高島町の某楼で遊んだことがあった。そのとき何かのはずみから、お葉が清元家の現状を話し始め「借金はあるは、後継者はないはで、このままではどうにもならないので、あなたが養子になってくれませんか」と言い出したそうだ。
一方、庄吉はというと、二十九歳のとき「座して食らえば山も空し(原文「山をも尽くす」)」のたとえにもれず、その後すっからかんの一文無しになってしまった。自分は三十までは勝手気ままに遊んでいるが、三十になったら必ず身を立てなければならないと決心していたことをそのときになって思い出した。それが来年には三十になってしまう。ここでなんとか身の振り方を決めなくてはならないと気づいた。そのとき、以前お葉から養子にならないかと言われたことを思い出した。
そこで、そのころ浜町の花屋敷に住んでいた清元家を訪ねたところ、お葉はその日、浜町の岡田家の店開きの余興に呼ばれたという。そこで続けて岡田家のほうに押しかけたところ、玄関で客と間違えられてしばらく滑稽な展開となったが、とうとうお葉と梅吉が休んでいるところに乗り込むことができた。
そこで、「いつだったか自分を養子にすると言ってくれたことがあったが、私も持ち金を使い果たしてしまい一文無しになってしまったので、あなたの養子になる気になったので、どうか承知してくれないだろうか」と相談した。
そのときお葉は、しっかりとした女であるところを見せた。亭主の四代目延寿太夫にさえも相談せずに、「それはありがたいことだ、でも清元の家には今、三千八百円の借財があることを承知してもらいたい、それから、あなたを養子にもらったら富貴楼から苦情が出るので、あなたは三年間ばかりは富貴楼に出入りしないという決心をしてもらいたい」と言ったのだった。
庄吉はこの条件を承諾した。そのかわり、婿養子にはなりたくないので岡村家に女子がいても、自分の妻は自分で選ばせてほしいと言った。この双方の意見が一致したので、庄吉はいよいよ清元の養子になることが決まったのである。
さて、清元家に養子ができたということを聞いて、十一人の借金取りが一度にどっと押しかけてきた。そのときお葉夫婦はそれを庄吉に任せて、どこかに身を隠してしまうという始末だった。庄吉は、前から懇意にしていた浜町の待合である弥生の主人から、若干の金子(注・きんす)を借り受けて、借金整理に取り掛かることにした。
ところが、最初は三千八百円と言っていたのが、だんだん増えて、四千二百円ほどになっていたので、さらに調べてみると、某高利貸しの借金など、初めは五十円だったのが、今では三千円余りになっていたのだった。そのほかは米屋、酒屋といった小口ばかりだったので、その人たちを集めて、全額の二、三割に当たる金額の金を財布ごと彼らの前に投げ出した。そして、「まず、これだけを受け取ってほしい、その分配は、よろしく頼む」と言った。
そのやり方が債権者たちの気に入り、みな庄吉のことを信用した。そこで庄吉もさかんに金策に励んだ。返済するたびに若干の割引をしてもらえるようになり、半額くらいの金額で全部の借金を返済することができたのだという。
こうして岡村家の債鬼を追い払った庄吉は芸道に一意専心精進し、明治三十(1897)年には五世延寿太夫となった。その披露のときに発表された「青海波」そして「柏の若葉」の新曲は、今でも清元の曲の中で人気のものになっている。お葉の高弟であるお若を妻にし、清元の至芸が一家に集まり、近世における清元興隆の気運を開くことになったのである。
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