百五十七 五世清元延寿太夫の生立(上)(下巻34頁)
私は大正初年に同好者とともに麻布狸穴に清元倶楽部を設け、五世清元延寿太夫を招聘して数年間、清元の直伝を受けたことがある。そのため延寿太夫の人となりや芸風について語るべき多くの材料を持っている。だがここではそれを語る前に、まずはその生い立ちの一端を物語ることにしよう。
五世清元延寿太夫岡村庄吉は祖父を斎藤彦兵衛、父を萩原平作といった。祖父の斎藤彦兵衛についてはおもしろいエピソードが伝わっている。
徳川十一代将軍家斉公時代に、三河島に住んで御城付御庭番の親方を勤めていた伊藤三郎兵衛という者が、盆栽好きの将軍から何かの盆栽の御用を仰せつかった。彼はとくに考えもせずにお受けしたのだが、さてこれを手に入れようとすると府下のどこの植木屋を探しても持ち合わせがない。困り果てて切腹してお詫びするほかはないという苦しい状況に追い込まれた日、足をすりこ木にして、ほうぼうを回った帰り道に、飯田橋の植木屋、斎藤彦兵衛の前を通りがかった。手下の者を振り返って「ここにも一軒植木屋があるが、こんなケチくさい植木屋にあの盆栽があるはずもなかろう」と言って通り過ぎようとしたが、その手下の者にいさめられ、では念のためにと斎藤の店に立ち寄った。
するとそこの主人である彦兵衛は自身が非常な盆栽好きで、いろいろな珍木を集めていたのである。伊藤が血眼になって探していた盆栽も一鉢持っていたので、伊藤の悦びははかり知れなかった。即座にその盆栽を譲り受け、首尾よく将軍家の御用を果たした。そして、その礼の気持ちから、斎藤を幕府御庭番に推挙したのだそうだ。
斎藤という人もひとかどの器量を持つ人物だったので、ここから出世の糸口をつかみ、非常に裕福になったということである。というのも将軍家斉の豪奢は有名で、毎日のようにお居間の庭を改造させるのである。だから御庭番は夜間に大勢を率いて池を掘り、築山を造り、樹木を植え替え、翌朝までにお庭の景色を完全に一変させるのが常だった。その経費が莫大な分、御庭番の収入もまた莫大だった。しかも毎日のことだったため、一回使用した樹木や石材を再三利用するという方法が取れたので、そのために斎藤家はたちまちのうちに大金持ち(原文「大富限者」)になったのだそうだ。
実子が三人いたなかで、長男は家を継いで父の名の斎藤彦兵衛を名乗り、次男は亀次郎といって、横浜富貴楼の女主人お倉の亭主になった。三男は、向島の三囲あたりの植木屋萩原家の養子になって、萩原平作となった。それが、五世延寿太夫の実父である。
さて斎藤彦兵衛は、今話したような幸運から大金持ちになり、高田馬場近くに広大な地所を求めて飯田橋から移転したが、そのとき縁の下に埋めてあった金銀入りの大甕を運ぶことになった。物が物なので、子供達の目に触れさせないようにと配慮して、三人を一時的に倉庫の中に閉じ込めた。しかし子供たちは倉庫の窓から覗いて見ており、甕の中には金貨があることを知った。そのとき、「うちにはあんなにお金があるから、みんなで十分に使おうではないか」と三人で申し合わせたということだ。
こうして、斎藤家は長男が家を継ぎ、萩原家の養子になった三男の平作は同じく三人の男子を得た。
さて、五代目菊五郎がこの平作と親しく、ときどき萩原家を訪ねてくる仲だった。そんなとき菊五郎は、植木屋の半纏を身に着け、剪定の刀を持って刈込をしたりするのがうまかったのだそうで、そんな関係から、萩原家が窮乏したときに一番下の息子の菊之助を菊五郎が養子にもらうことになった。そして、次男の兼次郎は、横浜富貴楼の養子になった。
平作の長男の庄吉、すなわち、のちの五世延寿太夫は少年のころから乱暴だったので、とうとう売れ残りになっていた。萩原家は維新の前後に「軍用金」と称してしばしば浪士たちの強盗にあい、そのころまでには見るかげもない困窮に陥っていた。平作も病没したため、庄吉は、明治元(1868)年七歳のときに伯父である高田馬場の斎藤彦兵衛のところに引き取られ居候になった。
さて、この伯父彦兵衛の妻は、元猿若町の芝居茶屋である松川屋のお藤といい、昔は一枚看板の美人(注・「一枚絵に描かれたくらいの美人」の意だろう)だったが、庄吉が居候になったころには斎藤家の主婦として家事一切を切りまわしていた。庄吉の目から見ればほとんど鬼婆のようであったが、しかしながら後年振り返ってみると、その思慮深い振る舞いにずいぶん感心するべきところがあったということだ。
たとえば、我が子には白米の飯を食わせながら、庄吉には他の職人と同じ麦飯を出した。田舎だったので味噌搗きがあったのだが、背が届かない子供のためにわざわざ高下駄を作り、その味噌搗きの仲間に入れさせた。また七歳の子供が運べるくらいの弁当籠を作り植木職人の仕事場に運ばせるなど、預かった子供を厳しく教育する見地からこのような扱いにおよんだのだという。
そのころ庄吉が通っていた近くの手習師匠が斎藤の家に来て庄吉を養子にくれ、と懇望したとき、お藤はきっぱりとこれを拒否した。「私の実子はどうなってもよろしいが、庄吉は預かり子で、一人前に育て上げなくてはならないので、養子など、もってのほかであります」と答えたのを、庄吉は物陰から立ち聞きした。さてはこの鬼婆は、心あって自分を酷使していたのかと悟り、はじめてそのありがたさに気付いたということである。
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