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百五十六  藤田男と大亀香合(下巻30頁)

 大阪の大実業家である藤田伝三郎男爵は、明治四十五(1912)年三月三十日、藤田組の経営する小坂銅山が成功し家運隆々の真っ最中に、その波乱多き七十二年の生涯を終えられた。実業家としての男爵についてはすでに以前に記述したことがある(注・69「藤田伝三郎男」を参照のこと)ので、ここでは美術品鑑賞家そして美術品収蔵家としての男爵について語ってみることにしたい。
 藤田男爵は美術品の鑑賞、収蔵において、明治時代の第一人者であるとは言わないまでも、まさに傑出した一人であることはまちがいない。
 コレクションは多岐にわたって(原文「八宗兼学」)いた。天平時代の品物から宋元の古画、和漢の仏画、古筆、古墨蹟、陶器、銅器、蒔絵、近代の各流の書画にいたるまで、類別的に収集した品数の多さでは全国でも肩を並べる者はないであろう。
 あるときに、私と益田男爵とが藤田男爵に所蔵の宋元の古画を一覧させていただきたいと申し込んだところ、男爵からの答えはご覧には入れるが、ただ、宋、元とだけ言われても困ってしまう、宋元の馬氏とか、夏氏とか、李氏とかと分類して御所望願いたい」と、このように大きく出たので、ふたりとも実に驚いたものだった。
 男爵が私たちにこのような大言を放ったのは、少しばかり相手を見損なっていたからだともいえるが、とにかく、男爵のコレクションがいかに豊富なものだったかを証明するに足る話だろう。
 男爵が大阪の網島邸に宝蔵を建てるとすぐに内部一面には木版を張り合わせ、その間には乾砂を詰め込み、さらに銅板を張り巡らすなど建設の最初の段階から完全に湿気防止をした。この宝蔵が落成したときには私たちに向かって拙者の倉庫は即日名器を入れても差し支えないように構造したと、その苦労談を語られていたものだ。
 男爵は、名器を購入するにあたり一度もその値段をきいたことがなかった。道具屋が品物を持参すると、それを見て、ただいるとかいらないとかと言うだけなので、出入りの道具商はその買いっぷりを喜んで、名品が出てくるや必ず藤田家にそれを持参し、まずはいるかいらないかを確かめた上で、はじめて他家に持ちまわるようになったのだそうだ。
 ところで男爵の道具鑑定においての天狗ぶりは天下無敵で、誰をも眼下に見下すような傾向があった。たまたま上京したときに好事家の道具を鑑賞するようなことがあっても、この品はかなり上手ではあるが、俺の家にはもっと出来のよいものがあるとか、この品は無傷だが、俺の家のに比べたら、少し見劣りするところがあるなどと言い、どんな品物でも俺の家にないものはなく、俺の家のものより好きになるものはないというのが男爵の器物鑑定における建前なのだった。

 そういうわけで、私はいささか小癪にさわる思いもしたものだから、その揚げ句にいたずらっ気を出し、あるとき男爵を牛込矢来町の酒井忠道伯爵邸に案内し、同家の道具の虫干しを拝見させてもらいに連れて行ったことがあった。
 このときに酒井家の書院に陳列されていた品物には、次のようなものがあった。
 茶入では、飛鳥川、橋姫、畠山、国司茄子、木下丸壺、利休鶴首、寺沢丸壺、玉柏、北野肩付、羽室文琳の十点があり、天目には、油滴、虹、夕陽。花入には、青磁吉野山、古胴角木があった。墨蹟には、無準(注・ぶじゅん。牧谿の師、無準禅師)、兀庵(注・ごったん)。絵巻物には、伴大納言、吉備大臣入唐があった。
 このような銘器、名幅の三十六点が、所せましと並んでいたものだから、さすがの男爵も唖然として、世間には「俺が家」以上のコレクターがいることを初めて知ったのであった。また、大阪に住んでいるためふだん大名道具を間近に見る機会がなかったので、自分のコレクションに宋元、あるいは、日本の古画が不備であることを自覚したのだった。
 このときから、この不備を埋めるために急に私などにも依頼が来たので、私の手だけでも、前後、数幅を周旋したし、また男爵が井上侯爵に頼んで深川鹿島家所蔵の夏珪の山水幅を譲り受けたのもこのような動機から出たものだったのである。(注・106にこの経緯の短い説明あり)
 藤田男爵の道具好きについては、ここにもっとも有名なエピソードがある。明治四十五(1912)年の三月末大阪で行われた、生島家蔵器入札のときのことである。
 出品されたものの中に交趾焼の大亀香合があった。この香合は、名物香合番付で昔から大関(注・横綱はなく大関が最高位)の位置を占めているもので、松平直亮伯爵所蔵の不昧公遺愛の同香合と、天下の双璧として知られているものである。それに先立つこと藤田男爵は、道具好きの割には、みずから茶会を催すことがあまりなかったので、適当な名品が揃ったら生前に一度は会心の茶会を催してみたい、ということで、だんだんに器物を集め始めた。そして、あとは交趾の大亀香合さえ手に入れたら、思い通りの道具仕立てができるからといって何度もこれを所望したのだが、生島氏がこれに応じることはなかった。そんなことで、なすすべもなく月日を送るうちに、藤田男爵は大病にかかってしまった。
 生島家蔵器入札の当日は、まさに、男爵の臨終の日だった。男爵は、前々から欲しくてたまらなかった(原文「兼て執心の」)大亀がいよいよ入札市場に出たので、是非ともこれを買おうとしたが、その入札金額が、生島氏の希望額に達していなかったために、親引(注・売立を請け負っている道具商に戻ること)になってしまった。
 そこで藤田家のお出入り道具商であった戸田弥七露朝は、藤田男爵の病床に進み出てその指示を待った。そしてとうとう示談で、当時のレコード破りの九万円で売買の相談がまとまったのであった。

 この吉報のたずさえて戸田が男爵の病床に駆けつけたときは、今や男爵が最期の息を引き取らんとする時だった。耳元で声高に大亀を取りましたから、ご安心なされませと伝えたところ、その声がよく心根に徹したとみえて、男爵はニコリとして安らかに瞑目されたという。
 この一事は、男爵のふだんからの道具への執心が臨終の際までも変わることがなかったことの証拠で、後世にも伝えてゆくべき美談である。藤田家が大正時代において天下屈指の大コレクターになったのは、男爵にこの意気があったからであろう。


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