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百五十五  井上侯爵と雁取茶碗(下巻26頁)

 井上世外侯爵は明治四十一(1908)年に加賀金沢に遊び、同地の名家の書画、茶器を巡覧された。しかし一度ですべてを見尽くすことができなかったので、同四十五(1912)年五月二十日に京都から金沢に再遊しようということになり、私もその一行に加わることになった。
 金沢に到着してみると、本多(注・政以まさざね)、横山(注・隆俊)の両男爵をはじめ金沢の諸大家が総動員で迎えてくれた。彼らは宝庫を開いて見せてくれたほか、兼六公園の成巽閣に展観のための席を設けて侯爵の臨席を願い出る人もいた。
 特に今回は、加賀出身の三井銀行専務の早川千吉郎氏が案内役(原文「東道」)で、また日本銀行副総裁の高橋是清男爵のちに子爵も一緒になったので、滞在の数日のあいだに名器、名物を、いったいいくつ実見したかわからない。
 世外侯爵もことのほか満足したようだったが、その数々の展観物のなかで侯爵の注意をいちばんひいたのは、能久治氏所蔵の、利休が銘をつけた、長次郎作の茶碗「雁取」(注・東都茶会記には「がんどり」のルビ)だった。

 この茶碗に雁取の名があるのは次のような次第だ。あるときに利休がこの茶碗を芝山監物に寄贈したところ、その返礼として鷹野の雁をつかわした。すると利休が、

  思ひきや大鷹よりも上なれや 焼茶碗めが雁取らんとは

という狂歌を書きつけたものを、また返事として送った。それが一軸になり、この茶碗に付属しているので雁取と呼ばれるのである。
 しかしいつのころからなのか、この雁取の文と茶碗とが離れ離れになってしまった。文のほうは、かなり昔から加賀の本多男爵家にあり、茶碗のほうは京都の某家にあった。
 その茶碗を能氏が買い取った。このとき文と茶碗とは、同じ金沢でわずかの距離(原文「咫尺(しせき)の間」)に接近したのに、ついに対面することはなかった。
 そして本多家蔵器入札の時、その文だけが井上侯爵の手に落ちたのである。そして、例の同情深い老侯爵は、今度の加賀行きに際して、みずからこの文を携え、能久治氏の家で文と茶碗を一緒にして飾り、絶えて久しき両者の対面を遂げさせたのである。
 能氏の驚喜もただごとではなく、老侯爵もまた非常に満足した。そして心中には、いつかは一度この文と茶碗を一緒にしないわけにはいかないという希望を抱かれたことだろう。
 井上侯爵が加賀金沢で、雁取茶碗の文と茶碗を対面させたのが明治四十五(1912)年五月だったが、それからわずか二年半後の大正三(1914)年、能氏は京都において他の蔵器とともにこの茶碗を入札売却に出した(注・5月京都美術倶楽部にて)。しかしその値段が予定に達せず、親引(注・入札者に戻ること)になってしまったのを京都の道具商の林新助氏が調整して古河虎之助男爵に納め、男爵は世外侯爵の八十のお祝いとして、これを老侯爵に呈上(注・さしあげる)することになったのである。

 このときの、古河家(注・古河財閥)の重役だった中島久万吉男爵のちに商工大臣から世外侯爵に送られた書簡には次のような一節がある。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)
 
(前略)利休雁取の文は御縁有之候て、夙(つと)に侯爵閣下の御手に帰し、文と茶碗とは相添ふべくして、竟(つい)に相添ふ事を得ず、然るに先年侯爵加州御行の砌(みぎり)、親ら彼の文を御携帯ありて能家に於て絶えて久しき両者の対面を遂げしめられ候段、侯爵閣下御風流の御襟懐、当時茶界の一佳話として伝へられ候。其後内田山八窓庵の大茶の湯に於て、文と茶碗との再会有之候由、伝承仕候処、爾来茶碗は復た加北の地に去りて、再会期し難く、真個蘇武朔地の歎茶界終天の恨事とこそ可申候、惟ふに両者は竟に久しく相離るべきに非ず、実に箒庵高橋義雄氏の申され候如く、茶碗が文を取るか、将又文が茶碗を取るか、茶道の結ぶの神の胸秘の程、偲ばれ候次第に有之候。然る所、其結ぶの神の手引なれや、今回故ありて彼の茶碗、古河家の養女となりて引取られ候に就ては、同家より不遠黄道吉日を卜して、彼の文の許に入輿為致可申都合に付、爰(ここ)に結納の一札、小生より差入申候、何卒千代万世の行末かけて、御納被成下度奉願候、謹言

 大正三年臘月(注・12月)二十九日
                             中島久万吉
 井上侯爵閣下

 このような次第で、雁取の茶碗と文はついに一緒になった(原文「比翼連理の契りを結ぶに至った」)。日ごろから世話好きで、私などにさえも結婚媒酌の世話を焼いてくださった世外侯爵が、他の媒酌人によって雁取の文と茶碗との結婚を見るにいたったのは、つまりは侯爵の長年の世話好きの報いというべきだろう。
 こうして雁取茶碗は純黒の、長次郎特有のカセ(注・釉薬の一部がはげ落ちること)も少なく、胴が少し締まり、口は少しすぼまり、外面は胴からその下にかけて飛雲のような横一寸(注・約3センチ)、縦四分(注・約12ミリ)ほどの景色があるのみ。濃茶茶碗として大きすぎも小さすぎもせず、その閑寂幽玄の趣は長次郎の作の中でも白眉と称するべきものである。今でも侯爵家の宝蔵の奥に収まっているので、いつか一度はその姿を現して茶人を喜ばすことがあるだろうと思う。(注・現在はサンリツ服部美術館蔵)
 


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