百五十四 杉老子爵の逸事(下巻22頁)
老子爵、杉聴雨(注・杉孫七郎)先生のエピソードはすでに以前に紹介したが、先生は長州人のなかにあって一種独特な人で、禅僧のような脱俗(注・俗気のなさ)ぶりが私のもっとも敬服するところである。前項(注・104「杉聴雨先生」参照のこと)では言い尽くせなかったことをここで補ってみることにしよう。
明治四十五(1912)年、先生が七十八歳のある日、私は先生の平河町の家に訪ねたことがある。
書斎の机の上に異様な硯があったのでその来歴を尋ねてみると、「これは弘法大師が唐から持ち帰ったもので、硯面の上の端に蓮花が彫刻してあるので、俺はこれを君子硯と名づけたが、発墨(注・墨のすれ具合)の見事さと言ったら、俺が長年のあいだに手にした幾百の硯の中で最高なので、非常に愛蔵している」ということだった。
そこでこれを手に取ってみると、縦八寸(注・一寸は約3センチ)、横四寸五分くらいの大硯で、石理【いしめ】の細かさは驚くばかりである。私は、たちまちのうちに欲しくてたまらなくなり(原文「食指忽ち動いて」)、譲っていただくことはできないかと盛んにお願いしたが、先生は頭を振り、これは俺の目の黒いうちには誰にも譲ることはできない、ということでこの談判は不調に終わった。
ところがそれから一週間ほどたったとき、先生が突然、一番町の私の紅蓮軒に訪ねて来られた。例の硯を持参され、「君があれほど懇望するので、よくよく考えてみれば、俺ももはや七十八歳で、余命いくばくもないから、思い切って割愛(注・惜しいものを手放す)することに決めたよ」と言い終わりもしないうちに、机のそばにあった巻紙を取り上げて簡単な一筆画の自画像を描き、
とる年をかぞへてみれば七十八 おひおひ近くめでたくもなし
と自讃して、呵々一笑(注・はははと笑う)された。
杉家は長州藩の名門である。この藩では、歴代の中に大将の首を幾つか揚げた者でなければ名門に列されることはないそうだ。先生の家では大将の首を七個揚げた名誉の経歴を持ち、代々武芸を重んじたので、先生もはやくから槍術を修め少壮のころには他流試合のために九州諸国を遍歴した。そのときには、柳河藩の道場を除いて一度も後れを取らなかった(注・負けなかった)ということだ。
そのため先生は秘蔵の名槍を相伝しておられたが、晩年にはその穂を取って仕込み杖を作り外出の際には必ず携帯していた。それを、茶目っけがあることで有名な、同国の友人である児玉少介氏が見て、ある日のこと先生をそそのかして賭け碁をやり、児玉は、先生がかねてから垂涎(注・ほしがる)していた谷文晁の青翠山水額を提供するかわりに、先生には例の仕込み杖を賭けさせた。その一戦の結果は、マンマと児玉の勝ちとなり、児玉はあっという間に玄関へ飛び出して仕込み杖を持ち去ったので、先生はおおいに困惑された。だが児玉はもともと、いたずらの一芝居を打ったに過ぎなかったので、その杖はその後、同国人の瀬川某に与え、某はそれを仰木魯堂に贈り、さらに魯堂はこれを先生に返納した。そのときの先生の驚喜はたとえようもなく大きく、まるで多年失踪していた愛児を迎えるようだったので、魯堂はその純情にとても心を動かされたということだ。
先生の詩作は非常にまじめで、その傑作のなかには作家の域にはいるものもある。しかしながら三十一文字のほうは、大部分が例のとおりのアソビ(原文「狂言綺語」)で、その脱俗ぶりを見せているものが多い。
あるとき島地黙雷が、先生が洋服のチョッキに毛皮をつけたのを見て、その皮はなんですか、ときいてみると、
ジャによつてわしが言ふ事あてにすな 表は狸裏はかはうそ
と答えられた。さすがの黙雷師も、一本取られて黙って苦笑するしかなかったという。
またある人から、鬼の絵の讃を乞われたとき、
追ひ出しし鬼もこよひは寒からむ 虎のふんどしよくしめて行け
としたためた。翁はその閻魔のような顔に似合わず、内面には無量の慈悲の心を持っている証拠だろう。
また私と一緒に鎌倉に転地中の井上侯爵を訪ねたときには、「君、これはどうじゃ」と言いながら巻紙に書いてあった狂歌を見せた。
稲村が崎で釣りたる太刀の魚 義貞どののかたみなるらん
大仏のお腹の中のひろきこそ 本来空といふべかりけれ
鎌倉は政子静の古蹟にて 山の腰にも穴のかずかず
というもので、井上侯爵も、読んで噴き出されたものだった。
先生は下関で、福岡出身の建築技師である仰木魯堂と知り合った。魯堂が上京して初めて建築したのは、平河町の先生の臨終堂だった。
このとき先生は、ある所蔵品を処分して金一万円を得たので、魯堂に向かって「俺はこの金で棺桶を置く座敷を造ろうと思うが、設計は一切君に任せるから」と言われたので、魯堂は、上段十八畳、次の間八畳の大書院を建てることにした。ところがその建築場所が、たまたま鬼門に当たるというので、杉家出入りの熊谷鳩居堂が迷信を気にした(原文「御幣をかつぎ」)。直接申し入れても取り合ってもらえないと思い、植木平之丞夫人、つまり先生の長女にさかんにやめさせるように進言したが、先生は、「よしよし、俺が自分で浄めてやるから、決して心配せぬがよい」と言って、自分でその場に行き、鬼門のほうに向かって立小便をし、「これで残らず(原文「悉皆」)悪魔を祓ったよ」と呵々大笑され、魯堂に向かっては、予定通りさっそく工事を進行するようにと命じた。
仰木は、いささか懸念しながらもその工事に取り掛かったところ、その後一週間過ぎて、先生に鬼門除けを忠告した京都の熊谷鳩居堂が、自店からの失火で全焼したという知らせが届いた。先生は呵々(注・大声で)と笑って、「俺のほうは、俺が浄めたので、鬼門は京都に移ったのだよ」と言われた。
その時建てられた臨終堂は、別名を古鐘庵ともいい、今なお平河町の杉子爵邸に現存している。(注・残念ながら屋敷は現存しないが、郷里山口県のふぐ料理店春帆楼が跡地に出店している)
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