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百五十三  裳川詩老の俳味(下巻18頁)

 私は岩渓裳川(注・いわたにしょうせん)翁の詩の作品について前項(注・152)においてだいぶ述べてみたが、このほかにもう少し、私と翁がなぜ知り合うことになったのかといういきさつや、翁の余技である俳句についてここで余談として述べてみようと思う。
 明治四十(1907)年ごろ、私は同県人の塚原夢舟(注・塚原周造)翁のすすめで、そのころ星ヶ岡茶寮で毎月一回開かれていた森槐南氏の杜詩講義(注・杜詩=杜甫の詩)を聴講したことがあった。
 槐南氏は四十前後と見受けられたが、色白の黒ひげで名古屋タイプの風采をしており、非常に雄弁な講義ぶりだった。
 そのうえ通俗な漢学先生じみた口ぶりではなく、博引傍証(注・広い範囲から例をひき証拠を示す)、自由自在で、詩格、用字の説明にはじまり、杜甫がその詩を作ったときの境遇や時勢の変遷、交友の状態などを説明するときの面白さは、まるで歴史小説を聴いているかのようだった。
 私の経験では、槐南の詩学講義と大内青巒の仏教講義は、非常に似ているところが多い。難解な意味を誰にもわかりやすくかみ砕き、誰にでも理解できるようにする力量が優劣つけがたいほどに両人ともすぐれていた。もしこの槐南が長生きしていたならば、ここでの縁で私は彼の門を叩くことになったのではないかと思うが、この人は割合に早く病没してしまった。
 そこで私は、上海で知り合った永井禾原(注・久一郎)を訪ねて、拙詩の添削を乞うたのである。しかし禾原もまた、ほどなく物故したので、あるとき石黒況翁(注・石黒忠悳)の早稲田多聞山茶会で同席した永坂石埭(注・せきたい)に依頼してみようと思い、茶友の松原瑜洲(注・新之助)氏に相談したところ、石はもちろんよいのだが、老年でしかも多忙なので、もう少し若くて気力のある人がいいのではないかという。そこで私は、松原氏の紹介で裳川翁を訪ね、ときどき自作を添削してもらえるよう、また詩歌談を聴かせてもらえるように頼んだのである。

 さて岩渓裳川翁の詩についてであるが、簡単に説明することができないので、それは別の機会に譲ることにして、ここでは翁の余技、あるいは隠し芸とでもいうべき俳句について一言述べてみる。
 前項でも述べたように、翁は豊かな詩情で俳句を吟出される。着想は軽妙、しかもそこには深い含蓄がある。それがおのずから独特の風格をそなえることになり、私などにはとても面白く感じられる。私がそう感じるだけでなく、翁の俳句は早くから専門大家の間では知られていて、しばしば敬意を表されたことがあったということだ。
 その一番の例に、このようなものがある。かつて正岡子規が新聞「日本」に寄稿していたころ、「旅の旅の旅」という、発句(注・ここでは俳句の意味だろう)入りの紀行文を書いたことがある(注・「旅の旅その又旅の秋の風」が最初の句)が、たまたま翁がこの文を見て、即座に無遠慮な評論を書き送った。子規はそれを読んで、ことのほか感服し、ある日、自身の写真を裳川翁に送ってきたその手紙に「自分は非常な肺病であるから、面会は此方より遠慮致す其代り写真をお送りするにした、而して此写真は十分に消毒したであるから、決して懸念くださるな、そして爾今音信はすべて手紙を以てするから、左様御承知下されたい」とあったそうで、子規も翁に対しては、この道の知己としておおいに敬意を表していたことがわかるのである。
 裳川翁の俳句は非常に数が多いようだが、私が翁からおききして、ときどき書き留めておいたなかでいちばんおもしろいと思われるのは次のようなものだ。
 まず春の句では、

  桜かな散るを盛りの初めにて
  似た人に呼びとめられて朧月
  遠近のけしきまとめる柳かな


夏の句では、

  五位の行く闇を追ひけりほととぎす
  稲妻にぽつかり出たり夜の山
  一つ来て藺の闇ほごす蛍かな


秋の句に、

  竜胆(注・りんどう)に砕けて白し蛇の衣きぬ
  門川や家鴨の覗く崩れ簗


そして冬の句に、

  鯨取り小さな家に帰りけり
  鶏の嘴はしあてて見る霰かな
  寝返れば鼠の逃げる寒さ哉


などがある。しかしながら私がいちばん好きな翁の句は、元旦の句で、

  今日ばかり鶴は物かは初烏
  (注・ものかは=ものの数ではない。初烏は元旦の季語)

というのと、春の句の
  分別のついた途端や落椿


である。そのほかで、すこぶる面白いものとして、

  持ち得たる闇潜り入る鵜舟かな


という句もある。これは、久須美双柳軒という旧幕府旗本出身の宗匠が、久須美は本姓を曽我といったことから、毎年、曽我兄弟の忌日(注・命日)に点取り俳句(注・点者が評点をおこなう)を集め、それを献灯にしたためて優劣をつけるという会を催したときに詠み出されたものである。
 曽我兄弟が、待っていた五月の闇に潜りこみ仇討をしたその意気を、鵜舟という語で表したところに、翁のセンス(原文「敏感」)がひらめいている。
 このほかにも俳句の専門家に負けない翁の句について検討を加えてみたら、まだほかにも多数の名句があることだろう。
 要するに翁は詩博士であると同時に句博士でもあった。その詩風に、一種、言い難い趣味があるのは、おそらく俳想を含んでいるためではあるまいか。とにかく、わが国の詩壇において、青厓、裳川の二翁が健在であることは、まったく現代の壮観であろうと思う。


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