百五十二 岩渓裳川翁の詩品(下巻14頁)
私は少年時代から漢詩が好きで、「唐詩選」「詩語碎金(注・しごさいきん)」などをひねくりまわし、折にふれ吟詠をしてみることもあった。和漢古今の詩を愛読し、気に入ったものは長編のものでもかなりたくさん暗記していたくらいである。しかしなにかに取り紛れて、不惑の歳(注・数え四十歳)に達するまで師について学ぶところまでに至らなかった。ただ明治三十一(1898)年にシナに赴いたとき、上海で日本郵船会社支店長だった鷲津毅堂門の、永井禾原(注・かげん。永井荷風の父、久一郎。久一郎の妻が鷲津毅堂)氏と知り合い、その後まもなく氏が帰国して隠居するようになってから、ときどき拙詩の添削を乞うたことがあったのと、森槐南氏が星岡茶寮で開いていた杜甫の詩の講義を、あるときに二、三回聴講したことはあった。
さて大正の初めから私は東都茶会記の記述を始めたので、自作の詩を記事の中に挿入する必要から、岩渓裳川(注・いわたにしょうせん)翁に学ぶ(原文「叱正を乞う」)ことになり、それからというもの、今日にいたるまで、おりおり翁を煩わしている次第である。
裳川翁は丹波福知山の朽木侯の藩臣であったが、五代前の祖には、通称が帯刀で、嵩台と号した、鴻儒(注・えらい儒者)がいた。この人(注・https://kotobank.jp/word/巌渓嵩台-1056842)は京都の吉益東洞に学び、池大雅らを友に持ち、早くから京畿間で名声が高かった。当時の福知山藩主は朽木昌綱であった。古銭の収集で名高く、茶道を松平不昧公に学び、不見庵龍橋と号して深く嵩台先生の人物を敬愛した。
そこで朽木侯は、嵩台先生を禄高二百石え召し抱えようとした。するとそのとき、高松の松平家では五百石で召し抱えようと言い、松平不昧公は千石で、と申し込まれたのだそうだ。すると嵩台先生は憤然として、「士はおのれを知る者のために死す、と言われるように、俺は禄の利益のために動く者にあらず」と言って他を断り、一番小禄だった朽木家を選んだのである。それからというもの岩渓家は、裳川翁にいたるまで五代の間、同家に仕えた。
こうして裳川翁は、先祖からの遺伝を受けて若年のころから詩の才能を発揮し、森春濤先生に学んで、永坂石埭(注・せきたい)、森槐南らとともに、森門下の逸足(注・逸材)と呼ばれ、今ではよわい喜寿(注・77歳)を越えて、ますます詩境は進み、私の卑見をもってすれば翁と国分青厓翁とは、現今の詩壇における双璧である。不心得(原文「不倫」)なたとえになるかもしれないが、青厓が宝生九郎ならば、裳川は梅若実、また、青厓を九代目団十郎とすれば、裳川は五代目菊五郎である。さらに、明治の歌人とも比較してみると、青厓が高崎正風、裳川が小出粲というところであろうと思う。
裳川翁は詩学への造詣が深く、才調絶倫、長作、短篇のどれをとっても、まずい作品が見当たらない。
翁から私に贈っていただいた大作だけを見ても、伽藍洞歌、白紙行、贈箒庵長篇、読入雲日記七絶十五篇、などがある。
そのため、翁の詩について全貌(原文「全豹」)を批評しようとすると、この場の短い文章で言い尽くすのは無理なのでそれは別の機会に譲り、ここでは翁の小品について、翁の才調がどのようなものであるか、その一端(原文「一斑」。「全豹一斑」=豹のひとつの斑を見て豹全体の姿を類推する、の意から)を示すことにしよう。
翁の詩に、「雨後凉夕」と題する七言絶句がある。
不是西風枕上伝 月明露白已凉天 中庭樹竹参差影 閉目秋声来四辺
これは、翁がたまたま手に入れた、俳人芹舎(注・八木芹舎。やぎきんしゃ)の短冊に、「錠させば四方になりけり秋の声」という句があったので、それを転結二句に翻案したものだそうだ。
翁がそれを森槐南に見せたところ、槐南が「構想が非常に俳句に似ている」と評したので、翁はしまいには種明かしをして、槐南がそうと見破った慧眼に驚きつつ敬服したそうだ。
また、翁が穉梅(注・穉=稚。若い梅の樹?)について詠じた詩がある。
曾見幺苗掀土生 数花竹外一枝横 可憐笑倚黄昏月 未解風前有笛声
(注・曾=かつて。幺=小さい。掀=覆っているものをめくる。倚=寄りかかる。黄昏=たそがれ)
この詩の転結は、紀貫之の「今年より春知りそむる桜花散ると云いふことは知らずやあるらん」の歌意を借用したもので、井上通泰氏もこれを見て、うまく意訳したものだと嘆賞したそうだ。
また翁が鎌倉で作った詩に、
春風何処訪遺蹤 唯有残僧撒手逢 花落鎌倉星月夜 五山齊打一声鐘
(注・蹤=跡)
とある。鎌倉山の星月夜というのは、昔からありふれた言葉だが、これを詩の中に挿入したのは、実に、翁が初めてだろう、
この詩が初めてある新聞に載せられたとき、翁がたまたま別の用があって初めて渡邊国武子爵、つまり無辺侠禅(注・原文では、以下もすべて禅侠になっている)を麻布の蝦蟇池邸にたずねたところ、侠禅は、その詩が載っている新聞を手にして出てきて、「花落鎌倉の星月夜は妙ですね(注・絶妙ですね)」と、初対面のあいさつもまだ済まないうちに、まず感嘆の言葉を洩らされたということだ。
また、翁が私に贈ってくださった読入雲日記十五首のうち、菅田庵を詠じた詩がある。
壁幅瓶花賞意幽 焉知清濁有源流 一庵茶事自然趣 聞説雲州出石州
(注・焉=いずくんぞ)
これは、私が「入雲日記」(注・箒庵が大正2年5月9日から18日まで、松平不昧の事跡を求めて出雲に旅したときの記録。東都茶会記で発表された。管田庵は、松平不昧の指図で作られた風呂場付きの茶室。不昧が放鷹のときに使った)に、「松平不昧は、片桐石州の流儀を伝えた伊佐幸琢(注・https://kotobank.jp/word/伊佐幸琢%283代%29-1052823)に学び、別に雲州流を開いた人である」と書いたのを見て、聞説雲州出石州、の句を入れられたのである。しかし雲が石から出たという言い回しは、たまたまの自然の巡り合わせで、しかもなんという絶妙な表現だろう。
以上のように、これらの短篇をいくつか見るだけでも、いかに気が利いて軽妙な江戸趣味を含んだ才調があるかということを窺い知ることができるのである。当然ながら、それは性格から流れ出てくるもので、他人の追随を許さない翁の独擅場といってもよいだろうと思う。
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