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百五十 茶道十六羅漢(下巻7頁)

 私は明治四十五(1912)年の初めから無職自由の境涯にはいり、もっぱら茶事風流に没頭することとなった。
 そのころまでには東京に茶道の古老大家がうち揃い、いたるところで茶煙が上がっていた(注・茶道が興隆し茶会が開かれていた)。
 例の和敬会という順会(注・会員宅で順番に開く会)なども、十六人の定員が満員の盛況ぶりだったので十六羅漢会の異名で呼ばれていたが、その会員の顔ぶれは次のとおりであった。(注・90に関連記事あり)

  東久世通禧伯爵 竹亭(注・みちとみ)
  久松勝成伯爵  忍叟
  松浦 厚伯爵  鸞洲(注・まつら)
  石黒忠悳子爵  况翁(注・ただのり)
  伊藤雋吉男爵  宋幽(注・しゅんきち)
  三井八郎次郎男爵 松籟(注・三井南家高弘)
  三井高保男爵  華精
  益田 孝男爵  観濤(注・かんとう)
  安田善次郎氏  松翁
  馬越恭平氏   化生
  瓜生 震氏   百里
  青地幾次郎氏  湛海
  吉田丹左衛門氏 楓軒
  竹内専之助氏  寒翠
  金澤三右衛門氏 蒼夫
  高橋義雄    箒庵

 十六羅漢は上の通りであったが、一月四日(注・上に同じく明治45年)に東久世通禧伯爵が八十歳で薨去されたためひとりの欠員が生じた。その補充として、加藤正義欽堂氏に白羽の矢が立ち、十六羅漢が再び満員になったことは、東都の茶道界のためにまことに喜ばしいことだった。

 ところで、これらの茶人のことを十六羅漢と言い始めたのは、例の富永冬樹氏(注・84「富永の毒舌」を参照のこと)だった。和敬会の連中は、どれを見ても羅漢面だねと言ったのが、ついに異名になったのである。
 これより以前、氏は本所の横網に新居を造り、吉野吉水院の書院写しの茶室を作った。その新築開きに十六人の客を招き、これを十六羅漢に見立てた。大倉喜八郎男爵に鶴彦尊者、益田克徳氏に克徳尊者、また私には高義尊者などという席札をつけて、托鉢坊主の鉄鉢形応量器(注・てっぱつがたおうりょうき。飯鉢のこと)で、客にインド式の斎食(注・さいじき。食事)を配膳されたことを思うと、富永氏は、よくよく羅漢に因縁のある人なのだろう。
 このときに招待された人たちは、富永の新築開きとあっては、例の口の悪さに合わないためには大いに奮発しなくてはならないと、いずれも喜捨物(注・お布施)をはずんだ。すると益田英作(注・益田孝、益田克徳の末弟)氏がそれを見逃さず、こっそりと新築費用と喜捨物の評価計算に着手したところ、喜捨物のほうが、はるかに新築費用を越えていたという結果が出た。そのとき、飄逸なる克徳尊者は突然立ち上がって一座を見回し、諸君、ひとつできましたから、ご批評願いますと言って、

    「主人は欲阿弥陀(横網だ)、お客は皆尊者(損じゃ)」

と披露したので、さすがの富永氏も例の気焔はどこへやら、ただ微苦笑を洩らすのみだった。
 十六羅漢について、このような因縁のある富永氏が、和敬会員に対して十六羅漢の称号をつけたことはまことに不思議な巡り合わせなので、ここでその由来を記録しておく次第である。


久世通禧伯(下巻9頁)

 東久世通禧伯爵は、和敬会十六羅漢の白眉(注・特別にすぐれた存在)であった。伯爵は維新前、幕府の圧迫を逃れて京都から立ち退かれた、かの七卿の一人で、その勤王尽国の事跡は歴史にはっきりと刻まれ(原文「炳焉(へいえん)として青史に在り」)、余技である詩歌、管弦、書道などでも、またそれぞれの特長を持っておられた。
 茶人としての伯爵は、まことに真率洒脱(注・飾り気がなく洗練された)で、器具の品評をするでもなく、その組み合わせを研究するでもなく、淡々として湯を呑むがごとくに、物にこだわらない流儀だった。
 しかし生け花には深くこだわりを持ち、自邸に各種の植物を植えた。椿などは、ほとんど十数種類に及んだそうだ。
 明治四十一(1907)年ごろから、伯爵はしばしば私の寸松庵(注・高橋の一番町邸にあった茶室)におみえになったが、たいてい静淑(注・物静かでしとやかな)で上品な伯爵夫人を同伴された。
 その客ぶりは、いたって平民的で、談笑中には時々、諧謔(注・気のきいた冗談)などもまじえられた。寸松庵の露地や庵室が、いかにも質樸(注・素朴)で古雅(注・みやびやかな)なので、自分が京都にいるような心地がするといって、とても愛されたのであった。
 またあるときには、七卿が西に下ったのち太宰府にあって、しばらくさすらいの身となられた時のことに話が及ぶこともあった。初めて会ったときから旧知のようで、宮中(原文「雲井」)に近い身分の方に対座しているように感じられなかったことは、非常に奥ゆかしい限りであった。
 公卿から華族になった方には、もともと、案外率直で質素で平民的な態度の人が多いが、伯爵などは、そのなかでももっともその気風を代表する一人であろう。その痩せぎすで、あまり風采のあがらない中に、なんとなく深い印象を秘めていた。
 伯爵の薨去後に、たまたま寸松庵に出入りすると、伯爵が悠揚として(注・ゆったりと)正座されている面影が、ありあと眼前に現れるような心地がしたものだ。私は追憶のあまりに次の二首を口ずさんだ。

    とはれにし葎の宿に思出の 種をのこして君逝きぬはや

    国の為心づくしの物がたり 聞きしも今は昔なりけり



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