百四十九 実業界引退後の感想(下巻3頁)
私は前述した通り、明治四十四(1911)年末をもち二十一年間打ち込んできた実業界を引退し、いよいよ閑散の身(注・仕事がなくひまな人)となった。このような境遇に行き当たった人のことを、文人風に形容すると「閑雲野鶴」と昔から言いならわされている。自分自身を鶴になぞらえるのは少し僭越の嫌いがあるとは思うが、とにかく、自由の身となった感想を詠じ次の一首ができた。
飲啄樊籠二十年 老来夢到来丸皐天 一朝振翼去何処 不是雲中已即水辺
(注・樊籠=はんろう。鳥かご 丸皐天=詩経「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ=深い谷底で鳴いても、鶴の声は天に聞こえる」から)
さて、実業界を引退したことにつき、多年深く世話になった(原文「厚誼を辱(かたじけ)なうした」)井上侯爵夫妻に感謝の気持ちを示したいと思い、明治四十四(1911)年も終わりに近づいた(原文「年の尾も早や二、三寸に迫った」)十二月二十九日に、侯爵が避寒されていた興津の別荘に夫婦そろって訪問し、先だって男の子が生まれたときに名前をつけていただいたお礼も述べた。その足ですぐに京都に向かい、祇園鳥居前の杉の井旅館に宿を取り、大晦日には次の一首を口ずさんだ。
入相の鐘のひびきも身にしみて 真葛ヶ原に年暮れんとす
明けて、明治四十五(1912)年元旦、勤めのない身の気楽さから、日が高くのぼってもまだ起き出さない(原文「日高きこと三竿(さんかん)、猶ほ未だ起きず」)といったありさまだったので、
旅人の心のどけき東山 朝いの床に年立ちにけり
という一首を詠じた。
それからゆるゆると起き出して朝食をとると、年頭にはまず嫡男の息災を祈願するため、夫婦連れだち車を男山八幡宮(注・石清水八幡宮)に飛ばした。
そこでほがらかな日光を浴びつつ社殿に参拝後、私がかねてから隠者の見本、風流の本尊として、わが後半生のためにもっとも多くを学びたいと思っていた真言密教の隠者である松花堂昭乗の遺跡をたずねた。
ところが維新直後の神仏分離の嵐が、瀧本坊、萩の坊をはじめとする三十六坊を吹きまくり、松花堂のありかさえも人に尋ねでもしなければわからないという状態だった。
もともと松花堂は真言宗の僧正であるが、晩年、松花堂に引き籠り風流三昧の生活にはいった。興がわくと大師流の筆をふるい、牧谿風の絵画を描いた。また、後年「八幡名物」と呼ばれるようになった数々の名器で交流茶事を催し、遠州(注・小堀遠州)、江月(注・江月宗玩)、光悦(注・本阿弥光悦)、沢庵(注・沢庵宗彭。そうほう)、長嘯(注・ちょうしょう。木下勝俊)などの名流(注・有名人)と深く文雅(注・詩文を詠んだりする風雅な道)の交わりを行った。彼の遺した風雅の余韻を私は常に欽慕(注・敬い慕う)してやまない。あまりの惨状に茫然とし(原文「俯仰感慨のあまり」)、
男山松吹く風にうそふきて 心澄ましし人をしぞおもふ
の一首を書き留めるだけで帰ることにしたが、後年、私たちが松花堂会を発足させて八幡山下の竹やぶの中に散乱していた墓石を拾い集め、松花堂の師である実乗のものも一緒にして今日のように修理したのは、このときに私の頭の中に湧き上がった理想が実現されたものなのである。
翌二日には武藤山治夫妻を、播州(注・現兵庫県)舞子の仮住まいに訪ねた。そのときにも、次の腰折(注・自作の和歌を謙遜する言い方)を詠んだ。
蘆田鶴の舞子の浜に住む友と 年のほぎごとかはすめでたさ
このようにして三が日を京畿の旅で過ごして帰京した私は、それから後半生の門出を迎えることになった。
もともと私は実業畑の人間ではない。ただ、持って生まれた趣味的な性分を満足させるためには、一時実業界に身を置き家計的な安定の基礎を作り、その上でゆるゆると趣味の林に遊ぼうという二股根性を持っていた。それで心ならずも踏み入った実業界に二十一年間を過ごし、今ようやく本街道に這い出したところなのであった。それでしばらく身体を休めて、安閑とした月日を送っていたのだが、その心境は宋の陸放翁が、家から遠く離れた成都での七年にわたる官吏の仕事をやめて郷里に帰ったときに、
遶檐点滴和琴筑(檐=のき、遶=めぐる、点滴=雨だれ、琴筑=ともに弦楽器)
支枕幽斎聴始奇(幽斎=静かな部屋 )
憶在錦城歌吹海(錦城=成都の別名、歌吹海=歓楽街)
七年夜雨曾不知(曾=かつて)
(注・大意「静かな部屋で枕にもたれて雨だれの音をきいていたら、成都の歓楽街できいた弦楽器の音にきこえた。七年間、雨だれの音をきいたことがなかった」)
と詠じたのと、やや似ているところがあると思う。私はすぐに「夜の雨」という題名の新曲を作ってみた。次のようなものである。
「夜の雨」
本調子〽玉水の軒端をつたう声すなり、琴からあらぬかほどぎにも、似たるしらべの面白や、昔陸放翁は、蜀の都のつかさを罷め、我が故郷にかえり来て、寝覚の床のつれづれに、七年知らで過ごしつる、雨の音色を愛でしとかや。
世の中の有情無情の物の音は、自からなる調べあり、峰の松風、磯の浪、枝の鶯、田の蛙、千草にすだく虫の音や、妻恋う鹿の声までも、宮商呂律の外ならず、ましてや是れは天地の、情を籠めてふる雨の。(注・宮、商は、雅楽の音階)
二上り〽春辺にきけば、しめやかに、鳥のねぐらをうるほして、花を催すのどけさよ、又五月雨はふり暮し、或る夜ひそかに松の月、晴るる間もなく、サラサラと、小笹にそそぐわびしさも、何時か薄ぎり、うちなびき、桐の一葉に秋の来て、こほろぎなきつ、村雨の、音聞く夜半に、独りかもねん。
三下り〽さんさ時雨か、茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ヨイヨイヨイヤサ、実に有りがたや、天が下、賤が伏家も、百敷の、大宮人の高殿も、へだてはあらじ、雨の音、四季をりをりの夜の窓、心ごころに、聞くぞたのしき。
この「夜の雨」には、平岡吟舟翁が東明流の節付けをしたので、それ以来同流の一曲となり、自分でも唄いまた人が謡うのを聞いて、自然とその年の思い出としている。
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】
コメント