百四十八 実業社会に告別(上巻513頁)
私は前述したような次第で、明治二十四(1891)年から実業界に身を投じ三井銀行にはいった。同二十八(1895)年からはさらに三井呉服店の改革に当たり、三十二(1899)年に三井鉱山会社理事を兼任し、三十七(1904)年三井呉服店が株式会社三越になると、ほどなく三井鉱山会社の理事専任になった。同四十二(1909)年、三井営業店の組織変更後、三井を代表して王子製紙会社社長を引き受け、四十四(1911)年、同社苫小牧工場の完成を機に、予定した期日どおりに引退することに決め、同年初めの冬に、藤原銀次郎氏に後任を譲り、いよいよ実業界に告別した。(注・箒庵の実業界時代については、54、59、67、94、146などを参照のこと)
私は明治二十四(1891)年から四十四(1911)まで満二十一年間、三井営業店に奉公していたが、本当のことを言うと、そろばんよりも筆を取る方が得意なのだった。まさに「越鳥南枝に巣くい、胡馬北風に嘶(いなな)く」のたとえどおり、自分の居場所に戻りたい気持ちが強かった。
つらつら考えるに私は比較的金銭に淡泊で大金持ちになるような資質に乏しい。いつもあまり金をかわいがらないので、金のほうでもあまり私を慕うということがないのは当然のなりゆきだ。この点については、はじめから大きな欲望もなく、自分の生活に不自由がない程度の資産をためて悠々自適、なにか興(注・おもしろみ)を感じたときには筆をとり、古人が、いわゆる五日一石、十日一水で絵を描いたように、(注・「十日一水、五日一石」で、画家が一つの川を描くのに十日かけ、一つの石を描くのに五日かけるように、ものごとを丹念に仕上げるの意)心のおもむくままに文芸を楽しみたいと思っているに過ぎない。私の心がけ次第で、もう少し早く引退することもできたかもしれないが、例のごとくの趣味的な性格が障害になり、実業界にいながらにして、さまざまな道楽にも手を出したため知らず知らずのうちに奉公生活が長引き、やりかけの仕事に対しては結末をつけなくてはならず、そんなこんなで五十の坂に達するまで実業界の厄介になってしまっていたのである。
だが幸いに好機が訪れ、特別な手柄は立てなかったとはいえ、そのかわりに特別なあやまちもなく、五十一歳で首尾よく実業界に告別することができたことは、私にとり非常に幸せなことであった。
私は井上侯爵の紹介によって渋沢、益田の両先輩の推挙を得、最初三井銀行にはいり、しかも同行にはいった学生のうち、急先鋒(注・先頭の切り込み隊)であった割には同僚にも主人にもかわいがられた。
また、その主人となる家が、日本における第一流の旧大家であったため、同勤務者の多くは修養のある士人(注・徳の高い人)ばかりで、この年月を比較的純潔な境遇の中で送ることができたことは何よりもありがたいことだった。
二十一年間の奉公を回顧してなにひとつ不足に思うことがないので、私はいつも人に向かって、学問をして福澤を師に持ち、奉公して三井を主に持ったことは私の生涯における大きな幸運だったと誇っている次第である。
三井の奉公中にもっとも気持ちのよかったことは、主人が全員、温厚の紳士で、きわめてよく部下を待遇してくださったことである。なかでも三井銀行総長の三井高保男爵は旧大家の主人には珍しい賢明な人物で、私はいつも人に向かって、男爵のような人は、大家の背景を取り除いて裸一貫で世の中に出しても相当の位置を獲得すべき人傑であると評したほどであった。私は引退後に男爵を訪問し多年の恩義に感謝したところ、男爵は前もって用意されていたようで、私は小色紙にしたためた次の一首を頂戴したのである。
末遠くきえじとぞ思ふ事しげき 年をもあまたつみしいさをは
ここにおいて、私はすぐに次の返歌を呈上(注・差し上げること)した。
久しくも汲みなれて知る弥増(注・いやまし。いよいよ増すこと)に みつ井の水の深きめぐみを
このような次第で、年来の奉公先から首尾よく骸骨を乞う(注・辞職する)ことができただけでなく、さらに和やかなあいさつを交わして袂を分かつということは、私にとり、まことに嬉しい思い出である。
私が王子製紙会社を辞めると同時に三井の方までも退いたことを、予定の行動であると知らずに、親切にも私を訪ねて、他の実業方面の仕事の口を世話しようという友人もあった。だが私の考えでは、少し大げさな言い分かもしれないが、これは人間の配材における経済的見地から非常に得策ではないと思うのである。理由を言うなら、私が五十一歳以降の全生涯を実業界で過ごしたならば、そのためには相当の報酬も得られるだろう。したがって養老金も貯めることができるだろう。それに一口に実業といっても、それほどドライな仕事ばかりでなく、私が苦痛を感じるほどでもないかもしれない。しかし、ひるがえって世の中を見てみると、高等学府から毎年有為の人材が輩出して常に就職難が生じている時代に、実業家としてはありきたり(注・原文では「升で量るような」)な私が、いつまでも後進の進路をふさいでいても、それで得ることのできるもの高は知れている。自身が、やや得意だと信じている他方面において、より有効な仕事を見出し、そこに後半生を託すほうが、はるかに得策でないだろうか。そのように思い定めて明治四十四(1911)年の末、五十歳を一期として実業界に告別した次第である。
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】
コメント