百四十七 明治実業の六雄八将(上巻510頁)
私の二十一年間の実業生活のあいだに知り合った先輩実業大家について見聞した事実を述べたり、その批評をしてみたいと思うが、「箒のあと」の体裁としてあまり一方に偏ることもできない。そこで、ひとりひとりについてではなく、何人かを古人に比較してその輪郭を示してみることにしよう。
私がひごろ日本の歴史を読んでつらつらと考えることは、天正時代(注・信長、秀吉の時代)の英雄豪傑が、強い意気込みで(原文「手に唾して」)諸侯に列せられて封土を得ようとしたのと、明治時代の実業大家が時運に乗じて資産を作ろうとしたのとには、非常に類似するところがあるということだ。
ならば天正と明治の人物について、その出身や成功失敗の足跡を対照してみれば、その人物像を想像することができるであろう。
そこで今回は、水戸の儒臣、青山延光著「六雄八将論」を使わせてもらい、明治の実業大家と比較対照してみることにしよう。だいたい次のような顔ぶれになるのではないか。
まず六雄は、
上杉謙信 渋沢栄一
武田信玄 大倉喜八郎
毛利元就 安川敬一郎
北条早雲 安田善次郎
織田信長 岩崎弥太郎
豊臣秀吉 藤田伝三郎
そして八将は、
蒲生氏郷 中上川彦次郎
佐々成正 松本重太郎
小早川隆景 益田孝
加藤清正 森村市左衛門
加藤嘉明 近藤廉平
黒田如水 川田小一郎
前田利家 古河市兵衛
伊達政宗 浅野総一郎
さて以上のように見立てたところで、この比較の理由を説明しようとすると、あまりにも冗長になってしまう。そこで、主だった四、五人についてごく簡単な短評を試みてみよう。
明治時代、わが国の実業界に雄飛した渋沢栄一子爵は、資産はあまり大きくなく、もしも富だけを比較するならば、世間にはその何倍もの資産を持つ者もあるだろう。しかし、その徳望が大きいことにかけては当世の第一人者であり、まるで上杉謙信が領地もあまり広くはなく、人数もそれほど多くはないのに、侠名義声(注・義侠心が強いという評判)が天下を動かし、隣国もみな畏敬していたのと非常に似通ったところがある。敵の塩がなくなったときいて車に積んで送り、敵の大将が死んだときいて箸を投げて泣いたというほどの義侠心を現代の実業家に探してみるならば、渋沢子爵をおいてほかにはいないと思う。
織田信長に見立てた岩崎弥太郎氏は、人となりが闊達果敢(注・大胆でのびのびとしている)である。相手の機先を制することに長け、かの共同運輸会社との競争で、ついにはこれを三菱汽船会社と合併させるに至ったときの作戦ぶりなどは、信長が桶狭間の夜襲で今川義元を打ち負かし、浅井、朝倉を滅ぼして京都に攻め上がった軍略と非常に似通っている。また、酒をかぶって意気込み、古今の英雄を睥睨(注・へいげい。にらみまわす)するあたりもほぼ同じだ。信長がとんだ災難で身を滅ぼし、弥太郎が胃癌にかかって早死にしたのも多少似ているところがあるかと思う。
豊臣秀吉に藤田伝三郎を比較したのはいささか不真面目かもしれないが、藤田が大阪を根城に、網島に桃山式の大伽藍を造営し、書画骨董品の富で天下に匹敵する者がなかったこと、また太閤秀吉の豪奢を明治に継いで、五尺の小柄な体は一見したところ子猿のような見かけでありながら、その胆力の天下を圧するところも、いささか秀吉公に類似していると言えようか。
八将のほうでは、蒲生氏郷を中上川彦次郎に比擬した。蒲生が群雄の中にあって、人品骨柄が一段とすぐれ、いったん采配を握ったならば百万の大軍をも指揮するというその大将ぶりと、中上川が白皙長身(注・色白で背が高い)の堂々とした風采で、明治実業家の中で異彩を放っていた点に類似点があるからである。氏郷が信長を舅に持ち、名門の威力で諸侯を圧倒したことも、中上川が福澤先生を叔父に持ち、背景に一層の重みが加わったことに似ている。また氏郷と秀吉の遭遇は、中上川と井上侯爵との遭遇に、やや似ていると言えないこともない。氏郷の述懐に、
限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風
と詠じたものがあるが、これは中上川の心境とまさしく同じだったのではないだろうか。
明治実業界の六雄八将については、拙著の「実業懺悔」に詳述してあるので今はこの辺でやめることにし、その他はすべて読者の比較研究にお任せする。なお、以上の六雄八将のうちで私がまったく会うことのなかった人物は、岩崎弥太郎のひとりだけである。
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