百四十五 北海道の雪見(上巻503頁)
私がはじめて北海道に旅行したのは明治四十(1907)年のことで、三井鉱山会社理事の時代に、現在同社で専務をしている牧田環君のほか二、三人と一緒に五月初旬に函館に渡ったのである。そこでは桜、桃、藤、その他さまざまな草花がどれも一度に開いて非常に見事だったので、私は次の一首を口ずさんだ。
たちかへり都の友にほこらばや 年にふたたび花を見てけり
このときの仕事は、三井にもっとも関係の深い北海道炭鉱会社の実況視察と、そのころ三井でに獲得した石炭山を踏査することだった。これに二週間かかったので夜分のつれづれを慰めるために牧田君に謡曲の「松風」を伝授し始め、帰り道に青森に戻ってきたときに初めて卒業免状を渡したなどというようなこともあった。
それから一年たち、私は四十二(1909)年に王子製紙会社の社長に就任したので、苫小牧工場の建設工事の監督のためにしばしば北海道に往復することになった。
あるとき東京から青森行きの汽車の中で、そのころ旭川師団長だった上原勇作中将【のちに元帥】と同車した。別れ際に中将は「この冬は是非とも旭川に来遊せられよ、北海道に来て雪を見ざる者は、共に北海道を語るに足らず」と言われたから、私はその言葉に興味をそそられ「そのうち仰せに従って、雪見の人となりましょう」と答えておいた。
そして明治四十四(1911)年、私は仕事で北海道に行き、旭川を経て沿道の積雪を見物しながら鵡川(注・むかわ)の山中に分け入り、上原中将は訪問しなかったが、とにかく以前の約束を果たすことができたのである。
私が二月の酷寒の時期を選んで北海道に山中に分け入ったというのはほかでもない、王子製紙会社苫小牧工場の仕事であった。この工場では北海道の官有林から、エゾ松、トド松を払い下げて、随時、輪伐(注・森林の樹木を毎年順番に一部分ずつ切っていくこと)を行っておき、春の初めの雪解け前に積雪の上を滑らして海岸方面に運搬していた。その終点から軽便軌道によって工場に運搬するので、製紙原料木材の搬出を実地検分するには厳寒積雪中を選ばなければならないのである。
私は二月上旬に東京を出発して苫小牧に赴いた。同行者三、四人と一緒に石狩平原を通過して、まず旭川に向かう途中、その年は特に積雪が多かったのでかつて想像もしなかったような珍しい光景を見ることになった。
たとえば、石狩平原の民家はひさしの上まで雪に埋もれているので、かまどの煙が地下から立ち昇っているという面白い光景だった。またある家のひさしの上には、アヒルが並んで日向ぼっこをしていたが、これは池の水が雪に埋もれているので身の置き場がないからだろう。
ところで、私はひとつ大きな思い違いをしていた。以前に「新年の河」という勅題が出たことがあった。そのとき私は旭川の名を材料に取り入れようと思い、いくら北海道でも石狩川のような大河が全部氷に閉ざされることはあるまいから、中央には一筋の青き流れがあるだろうと思って、なにげなくその意味を詠み込んだことがあったのだ。ところが今回実際に来てみると、カムイコタンのあたりでは、川の全面がカンカンに凍っており牛馬がその上を通行するというありさまなので、これは大失敗だったと一笑したのである。
さて旭川から落合に向かって汽車の旅を続け、その途中で鵡川の山中に分け入った。大木の林立している間の部分は積雪が割合に浅いので、わらぐつ(注・藁沓)をはいて、やっとのことで鵡川の木材伐採所に到着した。その木小屋の中で一泊し、大囲炉裏のほた火(原文・榾柮火。枯れ枝や小枝を燃やしたたき火)に当たり、遠く浮世を離れたときには、得も言われぬ一種清浄の気分を感じ、次のような腰折(注・へたくそな和歌と謙遜するいいかた)三首ができた。
あしびきの山静かなり杣(注・そま)が家を めぐれる水の音もこほりて
あたたけきほた火あたりて山賤(注・やまがつ。きこり)と かたる今宵を我が世ともかな
おそろしき熊ものがたり聞く程に 夜や更けぬらし寒さ身にしむ
そのような次第で、この晩は、ほた火をストーヴがわりにして炉辺にごろ寝し、翌朝は持参した缶詰や雑炊で腹ごしらえをすると、木材運搬道を視察しながら緩い勾配の山腹の下って行き、いったん木材集合所に立ち寄ったあとに夕刻に苫小牧に戻りこの行程を終えたのである。
北海道の見ものは雪景色である、という上原将軍のひとことが私を裏切らなかったことはもちろんだった。世の中に、もしもこのことを知らない人がいるならば、一度試してみることをおすすめする。
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