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百四十四 帝国劇場の使命(上巻500頁)


 日露戦争後、それまでわが国の頭上を覆っていた暗雲が吹き払われて日本晴れの気分になった国民は、明るい方向に向かってさまざまな文化事業を思い立った。
 そんななか、海外の文明国からこれからはどんどんと貴賓が来遊してくるにあたって、それを接待するための大劇場を持たないというのは一等国である大日本の国辱である、という議論や、かのフランスで国がパリの大劇場を保護しているように国賓を接待するために特殊な劇場に相応の保護与えるのが、いわゆる時代の要求であろう、というような議論が私の周囲でも闘わされていた。すると時事新報社長の福澤捨次郎氏が非常にこれに賛成し、当時、宮中方面に大きな勢力のあった伊藤博文公爵に同意を求めたところ、公爵もまたこの説に共鳴され、渋沢栄一、大倉喜八郎、近藤廉平、藤山雷太、田中常徳、手塚猛昌らの実業方面の人々の賛同を求めた。井上馨侯爵はこれに対し比較的冷淡だったが、伊藤公爵の口添えがあり、最後には反対しないということになり、三井、三菱もそれぞれ千五百株ずつ引き受けるということになったので、明治四十二(1909)年二月二十八日に創立総会を催し、百二十万円だったと記憶しているの資本金で丸の内に三菱が所有する二千坪の敷地に一劇場を建設することになった。
 私が明治十八(1885)年ごろに末松謙澄子爵らとともに演劇改良論を唱えていたころ、伊藤博文公爵が私たちの集会にみえて意見を一度述べられたということはすでに記述したとおりであるが(注・21「演劇改良の発端」を参照のこと)、それから二十年あまりが過ぎ、今また公爵がこの運動の助成をされたのは、まことに奇縁だと言わざるを得ない。
 こうして、私が執筆した創立趣意書には、「帝国劇場創立は、現代緊急の文化事業で、一等国なる大日本が、大に外賓を歓迎するには、この設備なかるべからず、そのほか、芸術奨励の意味においても、皇室より若干の御保護あってしかるべきことであろう」というようなことを書いたと思う。
 当時私は三井鉱山の理事であったから、その内規に従い発起人や役員にはならずに、ただ文芸顧問としてすこしばかり参与しただけだった。
 さて帝国劇場は、明治四十四(1911)年二月十日に落成を告げた。この工事中に、不幸にして伊藤公爵の薨去があったので、当初私たちが希望していたような皇室との関係もまったく絶えてしまい、従ってその御保護を仰ぐことはできなかっった。
 しかしとにかくこの劇場ができあがった時には、東京、いや日本における、第一等の劇場として帝都名物の随一に数えられた。大正十二(1923)年の震災までは、所属の俳優も一流クラスの者をまんべんなく揃えたほか、劇場が自家養成した女優もいた。また海外の芸術家を招聘する際にも非常に便利な劇場施設となった。
 堂々とした陣容他を圧していたから、興行はだいたいにおいて毎度好成績を収め、その積立金が一時は資本金の倍にまでなるに至った。
 しかしその後、歌舞伎座のようなより大きな劇場が現れ、東京第一の値打ちは失われ、また、特に癸亥(注・干支の、みずのとい。この場合、大正12年)の震火災に遭い、復旧後の経営が思わしくなく、ついには貸劇場の悲運を見るに至った。これは創立当初の意気込みからするとまことに遺憾と言わねばならない。
 昭和五(1930)年、帝劇は十年の期限で劇場を松竹合名会社に賃貸し、松竹は最近ではこれを活動写真小屋(注・映画館)として使用している。このことにつき私は、あるとき松竹社長の大谷竹次郎氏に意見をきいてみたところ、氏は「帝劇は開設当時、東京随一の劇場として、満都の人気を集め、経営者各位がいずれも紳士の顔揃えなので、演劇の品位を高めると同時に、俳優の地位を引き上げ、一応その使命を果たしたのである。しかるに、その後、東京により大きな劇場が出現したので、松竹はこれを借用して、東京第一の活動小屋にした。ところがこの後に新設される活動小屋は、どれもがこれに対抗して、より大きな設備をつけるようになったので、帝劇はさらに、第二の使命を果たすにいたるだろう」ということであった。
 もちろん、演劇と活動写真に、どちらが高級かいうような特別な軽重があるわけではない。帝劇が活動小屋になったからといって、それほど悲観することはないかもしれない。しかし帝劇発起当初の抱負を回想してみると、気持ちの上で満足しがたいものがあるので、私は少しばかりの卑見を述べることにする。
 今日の日本の劇場では、一流の俳優が自己の面目を賭けて独自の技芸を熱演する機会がないように思う。二年か三年に一回くらいの順番を決めて、月並な出し物ではなく、前もって入念に研究した(原文・「工夫に工夫を凝らした」)独自の型を後世に残そうという意気込みを持たせて俳優たちに登場させるようにしたら、必ずや芸術的な向上に貢献することになるだろう。俳優の声量には限りがあるので、西洋諸国の実例に照らしても、演芸に適度の余裕をもたせるためには、現在の帝劇くらいの大きさがもっとも適当だと思われる。もしできることなら、今後そのような目的のために帝劇を利用する道はないだろうかと大谷氏に提言したところ、氏も一概にはこれを否定されず、一応考慮してみようということであった。
 いつか私たちの希望が実現し、帝劇がさらなる新しい使命を負うことになるのかどうか、今後刮目して(注・目を見開いて)見守りたい。


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