百四十三 音羽護国寺(上巻496頁)
私は、新義真言宗(注・原文では真義真言宗になっている)護国寺とだんだんに深い関係を結ぶようになり、今では同寺の檀徒総代、そして護国寺維持財団理事長になっている。
この関係が生まれた因縁は、明治四十二(1909)二月ごろ、その前年に長逝された小出粲翁のために、山県含雪公爵が篆額を、高島九峰氏が碑文を書いて記念碑を建立することになったときにうまれた。その候補地を選定している最中に、御歌所寄人の加藤義清氏が、護国寺境内にちょうどよい場所を見つけたと言われるので関係者一同で実地調査をした。相談の上で観音堂前の老松としだれ桜の間が適当だろうと決定し、加藤氏の紹介で護国寺の許可を得たのである。
同年四月、小出粲翁一周忌の直後に現存する大石碑を建て、「寺郭公」を兼題(注・あらかじめ出された和歌の題)にして門下一同の和歌をつのったりもして首尾よく建碑式を終えることができたのである。
そもそも護国寺は天和元(1681)年、上野国碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺亮賢が幕府の帰依を受け、ここに伽藍の建立を開始したものである。
その後元禄十(1697)年に、五代将軍の母、桂昌院の祈願所としてさらに観音堂(注・本堂)を建立することになり、同年五月に上棟式を終えたことが、かの有名な隆光僧正の日記に記されている。
ところでこの観音堂は、当時全盛を誇った紀伊國屋文左衛門が、いつでも三つの寺院を建立できるだけの木材を所有していたというその木材を使って、わずか数か月の間に建て終えたという伝説が今でも寺に残っているそうだ。
さて当寺は境内が五万坪、千代田城の西北に位置し最高の景勝地を占めていたが、維新後に二万五千坪を皇室御用墓地に召し上げられ、五千坪を陸軍共同墓地に編入されたので、今では約二万坪を有するに過ぎない。しかし東京市内にあって老樹が鬱蒼(注・うっそう)と茂り境内清浄な寺院といったら、この護国寺のみと言ってもよいくらいであろう。
徳川将軍家が単独で建立した寺院であったから、維新前には墓地もなく檀徒もいなかった。そのために維新後はまったく維持の道を失ったが、ほどなく三条実美侯爵が亡くなり(原文「塋域を卜され」)、山県、大隈、田中(注・光顕)、山田(注・顕義)ほか、南部、酒井両伯爵家などが陸軍墓地をこの境内に定められたので、それ以来よくやく檀信徒が増え、観音堂裏手の空き地も今ではすき間もないほどになってしまった。そこで昭和六(1931)年に陸軍省から、以前に納めた五千坪の中から六百坪を分割してもらい今後の墓地の需要に応じることになったのである。
このような次第で当寺の境内は名公巨卿(注・身分の高い著名な人々)の墓所が並んでいることから、ここを、いわゆる墓地公園とみなし、その後、宝物館も建設された。ここでは境内に埋葬される名公巨卿の遺品を陳列し、学校の生徒などが墓参をしたあとにこの遺物の参観をして広く追悼修養の助けにする目的で提供されたのである。
高城大僧正(上巻498頁)
私は前に記したように、明治四十二(1909)年、歌人の小出粲翁の記念碑建立の際に発起人の一人として、しばしは護国寺に出入りしているうちに、護国寺第四十五世住職である大僧正の高木義海老師に拝謁する機会に恵まれた。
老師は福井県今立郡新横江村大字横越の生まれで岡田仁兵衛の長男だが、十九歳のとき郷里を出て千葉県松戸村宝光院にはいり、文久三(1863)年、同郡根本村吉祥寺の住職となり、その後、明治三十四(1901)年に真言宗各派分立の際に護国寺に移った。ここではもっぱら自門の興隆のために尽くし、同四十四(1911)年、衆望により豊山派の管長になり、同年五月、七十六歳をもって遷化された高僧である。
さて、私が初めてお目にかかったのは老師が七十四歳の時だった。その風采は、田舎の人のように身体が頑丈な作りで、なんら飾るところがなかった。言葉にも国なまりがあり、いかにも朴実(注・律儀で誠実)な性格をあらわしていた。率直で、「赤心を推して人の腹中に置く(注・他人を疑わず誠意をもって接する)」のおもむきがあり、私は一目で非常に敬服したものだ。
ある日のこと、老師は真心をこめて、つくづく次のように述懐された。
「愚僧(注・僧が自分をへりくだっていう)は久しくこの寺に住持しているが、いかんせん幕府の一建立とて檀家がはなはだ少ないため、一度本堂が破損すれば、本尊を雨ざらしにするのほかないので、愚僧は多年、食う物も食わずに倹約し、今日までに四万円ばかりの資財を蓄積したが、愚僧の余命いくばくもないから、今後この資財は僧侶よりも、むしろ俗家の手で保管してもらいたいと思う。聞けば足下(注・あなた)は、三井家につかえているそうだから、今より当寺の檀徒となって、ながくこの資財を擁護していただきたい」
このように言われたひとこと、ひとことに誠意がこもり、その熱心さに私は非常に感激したので、さっそく墓地を購入して檀徒の列に加わった。ほどなく前妻が死亡したので、とりあえずこの墓地に埋葬し、その後護国寺維持財団が設立されると、老師の高弟であった佐々木教純師が執事になられたので、ともに老師の遺志を守り財団理事になることを承諾された鍋倉直、池田成彬の両君とも協力して財産を増殖することに助力した。
その結果、今では十七、八万円の巨額に達したので、高城老師もさだめて地下で満足なさっていることだろうと思う。
昭和七(1932)年五月、第四十九世護国寺住職の小野方良行大僧正が遷化されたとき、佐々木教純師がすぐに次の住職に任ぜられたことは、護国寺の将来の隆盛のためにまことに慶賀のいたりである。
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