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百四十二  家族の消長(上巻492頁)


 私は明治四十(1907)年に老父を失い、四十二年に前妻を亡くしたが、同四十三年に後妻を迎え翌年に初めて嫡男を得た。つまり四年のあいだに、ふたりを失い、ふたりを得たというわけで、人生の加減乗除からは逃れられない運命だと思われた。
 老父と前妻についてはすでに触れた(注・140「老少無常」を参照のこと)ので、その後の私の家庭生活に関することに、些事であるがちょっとだけ言及させていただくことをお許し願いたい。
 私の前妻は子宝に恵まれなかったので、晩年に横浜貿易商会常務の山田松三郎氏の三男を養子にもらい、その寂しさを慰めていた。しかし前妻が早世したので、私は麹町区一番町の比較的規模の大きい家に養子とたったふたりで住むことになり、家事の面で非常に不便を感じたので、翌年の十一月に、平岡熈翁の次女、楊子を後妻に迎えた。
 媒酌は井上馨侯爵夫妻で築地精養軒で結婚披露宴を催した。そのときには清浦奎吾伯爵が祝辞を述べてくださった。
 このときの余興で青海波を舞った藤間政弥の地方の唄い手は清元お若であったが、これがお若が公開の場で唄った最後になった。
 その翌年四十四(1911)年十月二十六日に、私は思いがけなく一男児を得た。媒酌人だった井上侯爵は、一昨年、伊藤がハルピンで亡くなった日に、君の息子が生まれるというのも妙なので、自分が名付け親になってやるが、君が義だから、せがれは忠として、忠雄というのがよろしかろうということで、奉書に麗々としたためて届けてくださった。相も変わらない徹底的な親切で、まことにありがたく思われた。

 私の兄弟は六人で、私を除くと、みな子福者が多く、なかには七、八人の親となっている者もあるのに、私は妻帯以来約二十年たっても、まだ一子も得ていなかったので、もはや子供はないものと思っていた。だから忠雄が誕生したときにも満足な子供が生まれるとは思えなかったのに、その子が幸いにも男子であったので、いつもながらの腰折(注・へたくそな和歌という謙遜表現)を口ずさんで、自分のために祝ったのである。


  国の為めつはもの一人捧げ得て 人数に入る心地こそすれ



家庭の音曲(上巻494頁)


 私が明治二十四(1991)年に前妻を迎えたときは、なんの考えもなかったのに彼女が音楽好きで、琴を弾き、胡弓を引き、謡曲を謡い、鼓、太鼓を打ち、しまいに三味線曲もやって河東節まで練習したというのは、もちろん夫唱婦和で趣味を同じくするためであっただろう。ところが私がまたこの上なく音楽好きであったので、一家で共に楽しみ慰め合う趣味を持てたことは人生における幸福のひとつだったと思う。
 そのため後妻を選ぶにあたっても、第一条件としてまずは音楽の趣味がある者ということで、伝統的な音楽の家庭に育った平岡熈の次女が、いいなずけの相手が病気で亡くなったことで偶然にも婚期が遅れていたのを迎えることにしたのである。それ以来、それまで以上に家庭が音楽的になることになった。
 音楽が風俗や習慣を良い方向に導いたり(注・原文「風を移し俗を和げ」=詩経の一節「移風易俗」から)、社会の融合させるのに役立つということは今さら多くを語る必要もない。シナの聖人も口を開けば礼楽(注・れいがく。礼儀と音楽。中国で尊重された)ということをうんぬんしたほどだが、私の生まれた水戸においては儒教主義が盛んだったにもかかわらず音楽を悪魔の声として嫌悪したので、私の少年時代は家庭内で音楽を聞くなどということは夢にも思わなかった。はじめて東京に出て宴会の席で三味線を聞いたときには、何やら座っていることに耐えられないような気持ちになったものだった。

 しかしその後洋行し、ホームというものを知り、中流階級の家でピアノなどの楽器が置かれていないところはなく、どうということもない近親者の集まりにもおしゃべりのほかに音楽が加わり家の中に和気あいあいとした雰囲気が漂うのを見て、なるほど家庭に音楽が必要なのはこういうことだと認識し、帰国後にはみずからの家庭でもそれを実現しようとしたのである。
 私の岳父の平岡翁が東明流の家元であり、その娘である楊子、つまり私の妻が、父親の嗜好を受け継ぎ、時には作曲をすることもあるので、私も調子に乗って(原文「興に乗じて」)ときどきそれに詞をつけたりした。
 またこれを演奏することも楽しみ、その後、稀音家六四郎にいて長唄を稽古するようになると、私の作詞したものに節付けをしてくれるよう彼に頼んだものも十曲くらいになった。私はこの世を去るまで自分が音楽を楽しむだけでなく、歌詞も節付けも、わが国の上流階級に適し品行に悪い影響を及ぼさないような新しい曲を作って、これまで夫唱婦和でともに楽しむということがなかったために無味乾燥に陥り、ひいてはさまざまな不幸が起こってしまう日本の家庭の欠陥を匡正(注・きょうせい。正しくすること)することにつとめたい。
 僭越ながら、私の家庭を見本にして、近いところから始めて、ゆくゆくは、家庭で音楽を楽しむ趣味を、遠く全国までにも普及させたいと思っている次第である。


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