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百四十  老少無常(上巻484頁)


 私は明治四十(1907)年に父を失い、二年過ぎた同四十二年に妻を失った。これはもちろん全く私の家まつわる私事であるが、私にとっては生涯にかかわる一大事で、これについて一言述べておくべきであると感じるので今回言及することにした。なお当時、数多くの大家から亡妻に寄せられた追悼の美辞麗藻(注・詩や歌など)をなにもかも死蔵していることにもたえがたく、ついでながらこの紙面で使わせていただいたので読者にもどうか諒解を願いたい。
 私の父は名前を常彦といい、その四代前から水戸藩に仕えていた。維新前に、藩主の順公(注・水戸藩10代藩主、徳川慶篤よしあつ)に従い禁裏守護のために上洛したことがる。また、矢倉奉行を勤め、水戸藩の武器倉庫を整理したことがあるというのが藩士としての履歴である。
 刀剣の鑑定については一隻眼(注・独特の批評眼、見識)を持ち、時には自分でも砺(注・まれい。刀を研ぐこと)した。また水戸家の名刀について何から何まで記憶しており、それを語ることを楽しんでいた。
 居常恬澹(注・きょじょうてんたん。いつも平静)で物こだわらず、悠々自適して世を終えた。享年八十九歳であった。
 私の亡妻は、長州藩士、長谷川方省の次女で、千代子といった。明治二十四(1991)年に二十一歳で私に嫁ぎ、十八年間生活をともにし三十九歳で早世した。
 彼女の性質や行いについては、私が選定した戒名である幽芳院貞文妙覚大姉の文字にほぼ言い尽くされている。短い生涯は文芸と音楽とで始終した。
 和歌を小出粲つばら、大口鯉二に、琴、胡弓を山登萬和、川口玉栄に、茶道を青木政子に、小鼓を大蔵利三郎、山崎一道、三須平司に、太鼓を観世元規に、仕舞を梅若六郎に、河東節を山彦秀次郎に学んだ。また自己流で絵画を描き、写真を撮り、趣味の上において私と共に楽しむことを心がけた。
 だがこれらの諸芸のなかでも、もっとも琴に長じ、習った年月が短いわりには和歌にもやや見るべきものがある。次の四首などは、その一端を知るべきものだ。


      春雪
   梅が枝にそれかとまがふ花はあれど 消えてあとなき春の雪かな

      野蝶
   春の野のすみれつみつつ行く我を 道づれがほに蝶のおひくる

      夜春雨
   はしためがささやく声もたえはてて 雨しづかなる春の夜半かな
 
      秋暁
   寝覚してきく鐘の音も身にしみて あはれ催す秋のあかつき


 千代子がみまかった時、山県含雪(注・有朋)公爵は常磐会の幹事に時雨という題で会員一同に追悼歌を詠出するように命じられた。また大口鯛二氏は春雪という題で、その門流である「ちぐさ会」から同じように和歌を募集された。その他の先輩や友人たちから寄せられた和歌は二百首余りにものぼり、翌年の春、岡田八千代女史に託して、「ありし世の巻」を執筆してもらい、「言葉の友の巻」「時雨の巻」「春雪の巻」「なきあとの巻」の五巻を併せて一冊にし「小夜ちどり」と名づけ、知り合いに配った。
  この中にある、名家の追悼歌首を以下に掲げる。


      寄時雨追悼  山県有朋
   さびしさのかぎりも見えてひとめさへ かかる野末にふる時雨かな

        吉田貞子
   はれ曇る時雨の空に似たるかな おもひいでつつぬらす袂は

        益田 孝
   小鼓にまひつる夢やむすぶらん 時雨の音の窓をうつ夜は

      寄雪追悼   大口鯛二
   花とみし春の淡雪人みなの たもとの露となりにける哉

        三井五十子
   八千種の園の姫松雪折れの なげき見んとは思ひかけきや


 このほかにも、数々の追悼歌があった。

        三井高保
   飛鳥川かはるふちせの友千鳥 しぐるる夜半の声のかなしさ

        高島張輔(注・九峰。高島北海の兄で漢詩人)
   かをりのみ世にはとどめて春風の 吹くをもまたず散りし梅かな

        大倉鶴彦(注・喜八郎)
   さまたげの多きうき世や花さけば かならずすさぶ隅田の朝風

 私の実家には長寿の者が多く、明治四十(1907)に父が没したとき私は四十八歳ではじめて葬儀というものに出合った。ところがそれから二年で今度は年下の妻を失い、このような場合の心境を痛切に実感するにつけ次のような歌を詠んだ。

   程ふれば忘れんと思ふ面影の などさやかにはなりまさるらん

 また、ある日墓参りをしたとき、雪が深く積もっていたので、箒でみずからそれを払いながら、

   行吟又到墓門辺 髣髴音容在眼前 手掃墳頭三尺雪 峭寒或怕透黄泉
  (注・峭=険しい 怕=おそれる)


と口吟した。
 こうして四十九日を過ぎ、翌年の二月中旬に寸松庵で茶会を催し、床には寂蓮法師の筆になる
   無明轉為明 如融氷成水 
   注・轉=転)

の一軸を掛け、追悼の意を表した。

 回顧すれば、今ではすでに二昔半(注・25年)が過ぎ、鬢絲禅榻(注・びんしぜんとう。白髪まじりになる。唐の杜牧の詩の一節)、唯隙駒(注・月日がはやく過ぎること。荘子の一節)のはやさに驚くのみである。


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