百三十九
河東節稽古初め(上巻481頁)
私は前にも述べたように明治二十六(1893)年ごろから謡曲を習い、ついで能楽におよびそれから十数年間継続したが、同四十(1907)年ごろになり合方(注・あいかた。三味線を弾く人)のいない謡曲だけでは満足ができず、なにか三味線曲を稽古してみようという気になった。
何を稽古しようかと考えてみたが、義太夫は家庭の音楽ではないし清元、常磐津も最初から習おうという勇気は出ない。そこで、少し活気には乏しいがシンミリとして上品な河東節に狙いをつけることにした。そして、そのころまだ元気だった同流の家元であった山彦秀次郎を頼りにし、亡妻もまだ存命中だったので、妻は三味線、私は唄の稽古を始めたのだった。
最初に習ったのが「熊野(注・ゆや)」だった。そもそも河東節というのは、江戸時代の中期に吉原謳歌芸術として出現したもので、浅草の札差旦那衆に歓迎された。したがい、吉原廓内で流行し、有名な玉菊太夫などはもっとも堪能だったと伝えられている、
そのころの粋な遊客が、流連(注・いつづけ。家に帰らずに遊び続けること)の間のつれづれに渋い喉をきかせようとするときに、撥(注・ばち)の当たる音の騒々しい長唄でもあるまい、というところから廓において歓迎されたのである。後年、荻江節が吉原に流行したのも、また同じ理由によるのだろう。
このような事情なので、河東節というのは旦那芸であって、その人にみ合った力で唄うものだから、節回しものらくらしていてタイミングを取るのがすこぶる難しい。これには閉口して、私は次に取り掛かった「邯鄲」の途中でいったん稽古を中止することにした。
さて、師匠の秀次郎のことであるが、以前に、すでに簡単に説明したように、一種風変りの奇人である(注・86「明治中期の芸人」を参照のこと)。彼の晩年に歌舞伎座で演芸会があった時、演奏の途中で便意をもよおしてしまい、合いの手が長いところを見計らってそっとその席を立ち、用便のあと再び元の座にもどって平気でその曲を終えたということだ。このような奇行において、彼は神武以来ほとんど比類がなく彼の独擅場であった。
そのかわり稽古にかけては、だれかれの区別なくズケズケと小言を言い、どこか気骨があるのが面白かった。またその掛け声の立派なことといったら、あの「助六」のときに、ハヲ―という声が劇場の隅々にまで響き渡った、というような話が伝わっている。
ともかくも、私の三味線曲の口開きはこの河東節にその端を発したのであった。
清元師匠お若(上巻482頁)
私が河東節を習い始めてから二年ばかりたった明治四十二(1909)年の暮れに前妻が没したため、稽古もしばらく中止していたが、翌年の十月に迎え取った現在の妻の実家が音曲の家であった関係で、私はまたしても三味線の修養にとりかかった。
陰気な河東節には閉口していたので今度は思いきって清元を選んだ。そのころの女流清元の第一人者であった、五世延寿太夫の妻であるお若を一番町宅に招くことにした。そして夫婦いっしょになって最初に習ったのは「山姥」の山巡りの段だった。
そのころは河東節でいくぶん喉が開いていたから、その分進歩は早く、一段を上げるともう人前で唄ってみたくなってしまった。
そこで、まずはその試験官として先代の清元梅吉と延寿太夫に来宅してくれるよう頼み、おじけることもなく(原文・おめず臆せず)彼らを前に発声してみた。そして、とにかくその試験に合格したので、今度は浜町の常磐屋(注・本文中、常磐屋、常盤屋、常盤家などの字が用いられているが正式には常盤屋のようだ)に、お若の女流の高弟(注・優秀な弟子)を十数人招き、はじめて同門の衆評(注・おおぜいの人の批評)を求めた。
その結果がすこぶる良好なので、以降だんだんに深入りして、大正二(1913)年ごろからは麻布狸穴に清元稽古所を設け、お若に稽古をつけてもらう一方、延寿太夫にも出稽古に来てもらい、桧垣、浅間、夕霧、隅田川、お菊幸助などという当流の奥伝物(注・奥義の伝授にかかわるもの)をも伝習するにいたった。
延寿太夫の劇場への出演がこのころから非常にひんぱんになったので、私はお若に付いて、もっぱらお葉(注・四世延寿太夫の妻で、本人も清元の名人)直伝の節回しを研究したのである。
お若は中年まで非常な美声であったそうだが、その後すこし喉をいためたため、明治四十三(1910)年に私が後妻を迎えた披露宴で、妹である藤間政弥の青海波踊りの地を唄ったのを公開演奏の最後に、その後はもっぱら女流門弟の育成に没頭した。
新橋、日本橋の歌妓のなかから、〆子、丸子、利恵治、小花、綾子、おしん、れん子など何人もの歌い手を育て上げ、これらの女流が組織した「若葉会」という清元の演習会は百回以上も続き、一時は新橋が清元一色になったのは、まったくのところお若の献身的な努力によるものだった。
お若の語り口は、いたずらに華美をてらうことなく、鼻におもしろみがあって、節回しの細かなところに得も言われぬ妙味があった。稽古中に喉の調子がいいときには思わず聞きほれてしまい、一人で聞くのはもったいないと思うことさえあった。
夫の延寿太夫(注・五世)は大器晩成で、大正中期以降はほとんどわが国の音曲界の第一人者になるにいたったが、お葉の遺調をよく伝えて女流清元を育てたお若の功績は、ながく忘れてはならないものだろう。
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