百三十八 桂公のニコポン(上巻477頁)
桂太郎公爵にニコポンという異名をつけたのは誰だか知らないが(注・東京日日新聞記者の小野賢一郎と言われる)、これほどよく公爵にあてはまる尊称はないのではなかろうか。
公爵は背はあまり高くないがデップリと太っており、見るからに健康そのものという感じである。面相はむしろ丸顔のほうで愛嬌があり、切れ者だが融通が利きそうに見受けられ初見の印象がとてもよい人柄だった。
公爵が政党員を操縦するときに、ニコニコと微笑んで肩のあたりをポンと叩くと、たいていの硬骨漢もグニャグニャになってその統制に服するという塩梅(注・あんばい)なのだが、それをずばり言い当てたのが、ニコポンという異称だろう。
明治時代を通じて宰相になる人の数は多かったが、伊藤公爵も決して愛嬌がなかったわけではないが、桂公爵ほど愛嬌に富んだ人は他に例がないと思う。
このようなニコポン的容貌と、あくまで辛抱強い性質を持っていたので、後輩のなかから抜け出して高い位をきわめた。先輩である長州三尊(注・伊藤博文、井上馨、山県有朋か?)さえも凌いで三回までも内閣の首班に立ち、しかも、もっとも重要な責任を果たすことになったのである。(注・じっさいには伊藤5回、井上0回、山県2回首相になった。桂がもっとも重要な仕事をしたかどうかは疑問)
私は桂公爵とあまり頻繁に接近する機会はなかったが、明治四十三(1910)年の王子製紙会社の社長時代、外国製の新聞用紙の関税引き下げ案が帝国議会の議題にのぼるというときに製紙業者として国産擁護運動に加わり、渋沢栄一子爵、大川平三郎氏と三人で桂公爵を三田邸に訪問したことがある。そのときには用件のほかにいろいろな時局の問題についても話した。公爵と要談らしい要談をしたのはこのときだけで、これ以外はたいてい風雅遊戯の会合で接触したのである。
あるとき私は浜町の常盤屋で宴会のあと、実業家の三、四人と公爵を囲み雑談をしたことがある。この夜、公爵は特別に上機嫌で、しまいには身の上話にもおよんだ。(注・一部を読みやすい表現になおした)
「人はなんでも辛抱ということが肝腎である。それについて吾輩が大に感じたのは、東北戦争(注・戊辰戦争)のとき、会津の近くに至って賊軍の重囲に陥り、非常な苦戦でしきりに援軍を待っていたが、糧食も次第に尽き果てたので、今は戦死を覚悟して、敵軍中に斬り込まんとした時、軍中に一人の老人某という者【名前は忘れた】があって、今突出(注・突撃)すれは九死に一生を得ることもできぬから、辛抱せぬということはないと、切に吾輩らを制止したので、やむを得ずしばらく猶予している間に、包囲していた敵軍がなぜか次第に他方面に動き始めたから、そのまま形勢を観望しているところに、さいわい援軍が到来して、蘇生の思いをなしたのである、このとき吾輩は、しみじみと辛抱の大切なることを感じ、爾来(注・それからというもの)困難な場合に遭遇すれば、常に当時のことを想い出して、できるだけ辛抱するのを吾輩の主義とするに至った。古人の歌に、
すなほなる竹の心にならへ人 うきふししげき世には住むとも
というのがあるが、これも同じく辛抱の心持を言い現わしたもので、吾輩はこれを座右の銘と思っているよ」
と語られた。
私は、なるほどおもしろい教訓であると思った。さっそくそれを書いていただきたいと思い、女中に命じて短冊を取り寄せ即座にその歌を揮毫してもらったものだった。
公爵が日露戦争時代から時局多難の中でしばしば苦境に陥りながら、余裕しゃくしゃくとしてこれを切り抜けた手際を見ると、この談話に思い当たる節が少なくない。公爵の場合、例のニコポンに加えてこの辛抱があったので、あのような大成功をすることができたのだろうと思う。
桂公爵が愛嬌に富み、人の心をつかむ術にたけていたことは人のよく知るところであるが、ふだんの事務を処理するときには、いかにもテキパキと要領を得ていたのも、なかなか真似できないところであった。
些細な例になるが、明治四十(1907)年前後に井上世外侯爵が発起人になり、木挽町の田中家という旗亭(注・料理屋)で政治家、実業家の数十人の会合を開いたときのことである。この会合は、清元延寿太夫(注・五世)の内儀(注・妻)のお若が、最近、声を痛めて公演壇上に立つのをよしとせず、今後はもっぱら清元の師匠になるらしいということを聞いた世外侯爵が、例の世話好きが高じて集まった紳士連中から若干の寄付を集め、お若を後援するための資金を提供しようとしたのである。そのなかには、桂公爵、杉(注・孫七郎)子爵、園田幸吉男爵、高橋是清子爵、早川千吉郎、馬越恭平、加藤正義の諸氏がいた。
このときに桂公爵は女中に命じて半紙を数枚持ってこさせ、手ずから横とじの帳面を作った。そして自身が書記役になり、筆はじめに、二百円、と書きつけて、そのほかの人には、五百円くらいを最高額に、あちらはいくら、こちらはなんぼと、いちいち承諾を求めてまわり、たちまち七、八千円の勧化(注・かんげ。もともとは寺の建立のための寄付のこと)を取りまとめてしまった。その手際のあざやかなこと。あっという間に勧化帳を完成させて世外侯爵の手に渡したので、侯爵もニコニコとして、満足の意を表された。
このとき杉子爵だけは、俺は三百円を寄付しようと思うが、金はないから半切(注・全紙の縦半分サイズの紙)に詩を百枚書くことにしよう、これを一枚三円で売って、三百円にまとめてほしい、しかし絶対に三百円以上に売ってはならんぞ、と言われた。その後ほどなく約束を守られたが、いかにも杉子爵らしい行動で、私は桂公爵の機敏さに感心すると同時に杉子爵の脱俗(注・俗事から超越しているようす)にも敬服したものだった。
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