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 百三十七
伊藤公の文藻(注・文才)
(上巻474
頁)

 伊藤(注・博文)公爵は長州出身の高官のなかでももっとも文才に秀でたひとりであった。詩を作り書も巧みで文章も達者なほうであったが、特に書簡文は群を抜いて立派なものだった。素人のことでもあり詩も書も出来不出来がおおいにあるようだが、その傑作ともなれば持って生まれた春畝山人(注・春畝は伊藤の号)の気分が発露して、他人の追随を許さぬものがあった。
 詩については、秘書役である森塊南が多少の添削を加えたかもしれないが、非常に緊張したときの作品はことさらに面白いように思う。明治二十(1997)年前後の、内閣が始まった時期だったと思うが、官邸から芝山内の末松謙澄子爵の家に立ち寄り所感(注・気持ち)を綴った作を示されたということで、その後ほどなく私が末松氏から伝承した七言絶句は次のようなものであったと記憶している。

  騫凌霄志己非 老来豈復憶高飛 孤雲一片秋天外 満目江山帯夕暉 
 (注・騫=傷つく。鳥の翼。霄=空。暉=輝く)

 この作品などは、割合に野心が感じられなくて、公爵の詩としてはもっとも老熟しているものではないだろうか。
 公爵はまた時々、戯文(注・ふざけた文章)を試みられることもあったが、半分以上は漢文の思想で和臭がはなはだ少ないため、とにかく堅苦しい感じからは逃がれられなかったものの、そのなかに幾分かは洒落っ気が感じられたのは、さすがに公爵の快活なうまれつきから来るものだったのだろう。

 明治三十五、六(19023)年ごろ築地瓢家の楼上で長夜の宴を張られたとき、公爵が巻紙を取り上げてすらすらと書きつけられた俗謡は次のようなものであった。

 「位置(一)は固より高く、荷(二)は甚だ軽し、産(三)は営む所に非ず、詩(四)碁(五)二つながら学ばず、禄(六)は今受けず、質(七)も亦(注・また)置かず、蜂(八)には時々藪の中にて刺され、苦(九)も亦免れず、住(十)は大磯の辺に在り。」

 公爵はこの文句を同席していた平岡吟舟に見せ、君、この唄に節付けができるかと言われたので、翁が手に取ってこれを見てみると、俗謡としては堅苦しいし語調もはなはだ悪いのでこれに節付けするのは難題だったが、翁も例の負けん気からお安い御用でございますと三十分で節付けをしたばかりか、その唄に踊りの手もつけて、侍座(注・じざ。貴人のかたわらに控えている)の若吉(注・33に既出した名古屋出身の芸妓と同一人物か?)が三味線で弾けるようにし、藤間政弥に振りつけを教えて即席料理の舞踏を演奏したので、伊藤公爵も吟舟翁の音楽的奇才には感心したそうだ。これがおそらく公爵の俗謡の絶品で、短いながら公爵の身上をきっちり表現しているところに、公爵の文才(原・文藻)の一端を見ることができるのではないだろうか。

 

小村侯爵の警句(上巻475頁)

 小村寿太郎侯爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小男で、しかも痩せぎすだった。身体の割に頭が大きく、頬はこけ目はつりあがって、西洋人の漫画に見受けられる東洋人の顔ソックリであった。
 しかし「蛇(注・じゃ)は寸にして物を呑むの概あり」(注・人を呑むが普通。蛇は一寸の幼いときから人を呑みこもうとするように、若いころから気迫があること)というたとえにもれず、外交上の駆け引きにおいては土俵際で人を驚かせるような技量を持っていたそうだ。
 明治三十三(1900)年の北清事変の際、シナの外交団のなかでその技量をおおいに発揮し、そのきびきびした言動は各国の外交官の肝っ玉をくじき、彼らに日本に小村という外交官あり、ということを初めて知らしめたということである。

 侯爵は無愛想な顔つきで談話中に皮肉な警句をまじえ、それが往々にして毒舌となってしまうのだが、これにショックを受けて相手が驚くのを見て呵々と(注・ワハハと)笑うところは、いかにも人を食ったような様子であった。
 ポーツマス条約締結後のことであったが、三井銀行専務の早川千吉郎が小村侯爵を主賓として実業家連中を十数名浜町の常盤屋に招待したときのことである。早川氏は酒を飲むとかなり酔っぱらって同じことを繰り返す癖があったので、その晩も主人役をがんばって勤めたあと例の繰り言のメートルを上げ(注・激しくなり)主賓の小村氏の前に進み出た。「私は無遠慮に談論はするが腹には何もありませんから、決してお気遣いなされように願います」と言ったのだが、小村氏は侯爵の左右を見ながら、腹だけでなく、頭にも何もないだろうとはっきり言って(原文「喝破して」)例のごとくにからからと笑われたので、一座の人間は冷や汗を流して危ぶんだが、当の早川氏はすでにお酒が回っていたのでその意味に気づかなかったようで、一緒にからから笑って事は終わったものだった。しかし小村氏が外交談判では往々にして相手の武器を奪って逆に刺す、というような辣腕ぶりを発揮したことが、この一事をもっても推し量れるだろう。
 日本の政治家では、小村侯爵と犬養毅氏は小男の二幅対であるが、いずれ劣らぬ弁論の雄で、時に毒舌を吐いて人を罵殺するあたりが非常に似ているところは一種の奇観であるといえそうだ。


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