百三十六 大日本史の完成(上巻470頁)
大日本史は、第二代水戸藩主である光圀卿すなわち義公の創撰(注・発案して編集)されたものである。明暦三(1657)年(注・江戸で明暦の大火が起きた年)、義公が三十歳で駒込別邸に修史局を開かれてから代を重ねること十二代、年を閲する(注・けみする。年月がたつ)こと二百五十年にして、明治三十九(1906)年に、記、伝、志、表の三百九十七巻ならびに目録五巻を明治天皇皇后両陛下に献納し、全部の完成を告げたのである。
そもそも大日本史は、水戸義公が、大義名分(注・人、臣民として守るべき事柄)が世の中で明確になっていないことに憤慨し、皇統を正閨(注・天皇の血統を正統であるとする)し、人臣を是非し(注・臣下のあるべき姿を議論し)、春秋厳正の筆法で(注・「春秋」に孔子の意見が加えられていたように、「正邪の判断を加えた方法で」の意)、乱臣賊子の心胆をくじき、国体の尊厳と皇室の崇高であることの理由を祖述(注・先人の説を受け継いて述べる)されたものである。その影響は、勤王と斥覇(注・武力で政権をとる者を卑しむ)の思想を全国に醸成し、ついには王政維新の大業を完成させたと言ってよいものである。
その効果が大きかったこともそうだが、その編集の規模も非常に大きかった。伝え聞くところによると、義公が史館を駒込から小石川邸に移し彰考館と名づけ、天下の学者を招いて全力を修史事業に傾けたとき、その総裁の禄高が四百石、次の人が三百石、二百石といったかんじで、編集員が六十人以上もいたのであるから、その俸禄だけでもたいへんなものだったのである。このほかにも、史臣(注・もともとは記録にたずさわる官職のこと)を各地に派遣して資料収集に当たらせたその経費などがいくらかかったのか知れない。もちろん二百五十年にわたる大事業なので、時には汚職が行われたことがなかったわけではないが、水戸の歴代の君臣が、どれほどこの事業に精進したかということは、およそ推しはかることができるであろう。
さて大日本史は、義公の在世中に、安積【あさか】澹泊(注)だの、栗山潜峰(注)だのというような大学者が多大な精力を費やして編集に当たったので紀と伝の大部分は脱稿したが、まだ志と表には手がまわらなかった。
その後、寛政年間の文公(注・水戸徳川家6代藩主治保はるもり)の時代になって、修史の機運が復活し、その結果、文化年間の武公(注・7代藩主治紀はるのり)時代に、はじめて紀、伝を朝廷に献納し、書名も「大日本史」と勅定(注・天皇が定める)された。
それ以来、志、表が成立するたびに続々と献納をしたが、王政維新の前後は国事に事件が多発したこともあり、やむをえず一時編集を中止しなければならなかった。
そして明治四(1871)年ごろ、以前に志と表の編纂に大きな功労のあった豊田天功の門人の栗田寛氏が、志と表を完成させることが自分の任務であるとして、ある時には水戸に滞在して専心これに没頭したり、あるときは東京で大学教授などの余暇を利用してこれに従事したりして四十年間ものあいだ拮据経営(注・仕事に励む)したので、明治三十二(1899)年に彼が永眠したときには、十志のうちの最後の国郡志と、あとの三表を残すだけになるほどに完成していた。
栗田氏は、もう自分では起き上がって完成することができないとわかったときに、養子の勤氏を枕元に呼び、これを完成させてほしいと切に遺言したほどで、栗田氏がいなければ大日本史の完成はほとんど期待することはできなかったであろう。
後年、彼の高足(注・すぐれた弟子)である清水正健氏が、その功績をたたえ、
「先生の進退は、日本史の志類と相終始し(注・大日本史の「志」の編纂と重なり)、先生の学術は志類の編輯と相伴へり、日本史紀、伝、その編輯に従事せし者幾十家(注・編集に携わった人の数は多いが)、そのよくこれを大成せしは、澹泊先生一人のみ、日本史志、表その纂録に拮据せし者幾十人、そのよくこれを集成せしは、栗里(注・りつり=栗田寛)【寛】先生一人のみ、前に澹泊先生あり、後に栗里先生あり、義烈両公の志願、ほぼ果せりというも、敢えて溢美の言には非ざるべし(注・ふたりの先生のおかげで義公[水戸徳川家2代光圀]、烈公[同9代斉昭]の念願が果たされたといってもほめすぎではないだろう)。」
と道破(注・きっぱりと言う)された。まさに簡潔に要点をついたものだと言えよう。
こうして、栗田寛氏の没後明治三十六(1903)年になって、国郡志と三表を完成させるにはまだしばらく時間がかかりそうだが、できれば少しでも早くこれを完成させ義公の宿願を果たしたいというのが当主の圀順(注・水戸徳川家13代くにゆき)公の志願だったので、同年の二月二日、私の一番町宅でそのための評議会を開くことになった。このとき出席したのは家令の手塚任、家扶の古川哲、福原脩、香川敬三伯爵、石河幹明、佐藤奉、川崎八右衛門の諸氏であった。
ここで編集経費を大幅に増額し三年半のうちに完成させることが決議された。栗田勤氏が部下を督励して仕事に当たってもらうようにして、予定通り三十九(1906)年十二月に全部の進献(注・天皇に献上)する運びとなったのである。
このときの宮内大臣は田中光顕伯爵だった。大日本史の各一部を、天皇、皇后両陛下へ献納したところ、両陛下はとてもご満足に思召され、大日本史の資料として彰考館の蔵書を永世保存するようにとの思し召しによって、天皇陛下から金一万円、皇后陛下から金三千円の御下賜の恩命があった。そこで圀順公は常磐神社のそばに堅牢な書庫を建設し、ありがたい天皇のご意向に沿うことにした。
私も水戸藩臣として、少年時代から自分のことのように関心を持ってきた大日本史の完成を目前に見届けることができよろこびにたえなかった。そこで、ここにその完成の顛末を略述した次第である。
コメント