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百三十五 小出粲翁の和歌(上巻466頁)


 小出粲翁は明治時代における天才的歌仙であった。「難題であれば難題であるほど詠みやすい」と本人が言われたほどだから、その歌集を読んでいると着想がいかにも気が利いているし、垢抜けしていて、なんだか小説でも読むよう面白いだがそれだけに上品というわけにはいかなかった。すこし不真面目(原文「不倫」)なたとえでいうと、高崎正風男爵を団十郎とするなら、小出翁は菊五郎、また、男爵を宝生九郎とすると、翁は梅若実というような趣があった。
 京都の歌人である須川信行氏の話であるが、ある夏京都で木屋町の某旅館に泊まられている小出翁を訪問した。これまで先生の書かれた歌はたくさんあるが、詩を書かれたものがないから何か一筆願いますと唐紙の半切を持参したところ、翁はさっそく筆をとり得意の蛍の詩を書かれた。やがてその詩の中の、光という字を書き落としたことに気がつき、蛍には光がもっとも大切なので、これは、はなはだ粗相をしてしまったと言われるので、かたわらに光という字を書き添えるのだろうと思っていると、翁はしばらく考えて、紙の中に即吟で一首を加えられた。その歌は、


  なほざりに書きけちたりと思ひしは 光かくして飛ぶ蛍なり


というもので、書き損じられたのがあやまちの功名で当意即妙の一首ができ上ったので、この幅が一層おもしろくなったということである。
 翁の歌は天才肌で、ふつうの人では簡単には思案がつかないような題を即座にすらすらと詠んで、しかもおもしろい名歌ができ上がるところが他人がいくらがんばっても追いつかないところである。
 翁の歌集を見ると、いかにも軽口で戯談まじりのような歌もあるが、そのなかに翁の独特な天才が認められるようなものが数々ある。たとえば、

 

     鶴久子の会に己が歌を元子と米子と二人して上下を代筆したるを
   たをやめのふたつの筆を杖とし かきおこされぬこのこしをれも


     京都にかりの住ゐしけるころ
   ふぢばかまたたむばかりの女郎花 ひとりはほしき草のいほかな


     おなじ頃女をやとひて
   朝夕のけぶりの為めのふししばを かりの妻木と人やみるらん
 
といったもので、口にしがたい事柄を、無造作に、かんたんに、面白く詠み出すところが、天才でなければ真似できないところだと思う。
 あるとき小出翁は私に、歌人は思いやりということが大切である情のあるなしにかかわりなく、すべて同情の眼でもって観察すれば、そのなかにおもしろい歌の材料がたくさんこもっているものだたとえば、野分というのは秋の半ばに来る嵐だが、この嵐の吹いた跡を注意して見回すと、おもしろい現象を見つけることができる。雲を突くような大木が、根こそぎ吹き倒されているかと思うと、その下に吹けば飛ぶような小さな草が、倒れもせずに平気で花を咲かせているというようなことがある。これを情けのある人間社会のことに引き比べてみると、大いに悟るところがあるものだ。これらの機微を察し、歌の材料にすれば、もしかしたら、古人がまだ言い及んでいないことを詠み出すこともできるだろうと言われた。
 翁の野分の歌に、


   うつばりのゆらぐ野分を床下に しらず顔なるこほろぎの声 


とあるのは、まさにかつての話どおりの独特の観察であると感じた。
 小出翁の歌への批評は、明治三十三(1900)年に山県公爵「梔くちなしの花」後編の序文で書かれた一文が、いかにも適評であると思う。その一節に、
 「梔園しえん翁(注・梔園は小出粲の号)の和歌に妙なるは(注・詠歌にすぐれているのは)、世の人のよく知るところなり、その集を読むごとに、手に巻をおくことあたわざらしむ(注・その歌集を読み始めると、途中で巻を置かせてもらえない)。いわゆる出塵言語(注・俗世間の汚れから逃れた言葉遣い)、必ず新奇なるものにあらずや(注・どれも目新しいものではないか)、然れども、世の中にありとあらゆるもの、目に入り、歌をなさざるなきをもて(注・歌の材料にならないものはなく)、時に薪をおへる山かづの、花の陰にいこへるさまなきにしもあらず(注・薪を背負った山人が花の陰に憩っているように見えなくもない)、古人いへり(注・昔の人は言った)、楊誠齋(注・南宋の政治家、歌人)の詩は、細大の光景見るがごとく写し出さざるはなし、その長処も此にあり、短処もまた此にあり云々(注・小さなものも大きなものも見たままを写すように書かれているが、それが長所でもあり、短所でもある)」とある。 

  この序文で、紀貫之が大友黒主(注・六歌仙のひとり)の歌について「薪負へる山人の花の陰にやすめるが如し」と評した一句を借りて翁の歌を概評されたわけで、これはまさに至言とういうべきだろう。
 翁は明治四十一(1908)年に七十五歳で亡くなられたいつも闊達な気分で、酒を飲めば陶然と佳境に入り、歌姫の絃曲をきいて喜ばれるようなこともあったから、晩年までその歌に活気があり、また艶気もあったのだろう。とにかくも、この明治時代の大歌仙に、みじかい年月ではあったが修学することができた私はまことに幸せであったと思う。


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