百三十四 和歌修業の端緒(上巻463頁)
私は十歳ごろから古歌を記憶するようになり諷詠(注・詩歌を作ること)もすることがあったが、特に師について学んだことはなかった。ところが明治三十九(1906)年七月の下旬に益田鈍翁の鵠沼の別荘で山県有朋公爵と同宿し、主人と三人鼎座して話題が歌のことに移ったとき、公爵は詠歌に関する感想を述べられ「俺の父は国学者で、おりおり和歌を詠んだので、俺もその感化を受けて少年時代より和歌を好み、維新前、国事をもって京都に赴いた時、詩歌入りの『葉桜日記』を物した(注・書いた)こともあり、その後も折に触れて和歌を口ずさむことがあるので、近頃は小出粲【つばら】翁に添削してもらうことにした。君ももし歌を習うつもりならば、一度小出翁に逢ってはどうか(原文「如何」)」と言われた。
私はもともと歌が大好きで前から習いたいと思っていたところだったので、「仰せに従い、さっそく小出翁に入門して、おそまきながら稽古してみましょう」と答えると公爵はとても喜び、君がそのつもりならば、近日、俺が小出に引き合わせてやろうということになった。
こうして十日ほど過ぎたある日、公爵から小石川水道端町の別宅に招かれた。夕刻から参上すると、相客は田中光顕伯爵、鳥尾小弥太子爵、小出粲翁、井上通泰氏などの大家ばかりであった。
この別宅は、新々亭【さらさらてい】という名で、公爵が貞子夫人のために建てた(原文「構築した」)ものだった。庭は益田無為庵(注・益田克徳)と老公とが相談して造られ、神田上水が南下がりの庭を流れ去って池に注ぐという趣向だった。公爵には次のような歌がある。
さらさらと木隠れ伝ひ行く水の 流れの末に魚のとぶ見ゆ
当時は日露戦争のあとだったので、日本の国運が末広がりに発展するようすを示されたものらしく、その晩、池辺に焚かれたかがり火が青葉隠れにちらちらと水に照り添う光景を眺めながら、一代の歌人と政治家が風雅な談話を交換するという、非常に愉快な会合だった。
このとき私は、主人である公爵の紹介で初めて小出粲翁に対面した。翁は旧小浜藩士で、酒が好きなせいか鼻の先が赤く、目は象のように細く優しく、このとき七十三歳だったが、座談に長じて非常に快闊(注・快活、さっぱりした)老人と見受けられた。
この晩もいろいろな話をしたが、歌というものは、いつも思っていながら、ちょっと口に出せないようなところを言い表すのが妙所(注・表現できない味わい)で、小池道子(注・明治、大正期の御歌所歌人)の「程ふれば忘るるばかりの憂きことを嬉しく人にいはでやみにき」などは、そのよい一例であるなどと語られた。
こうして私は、山県公爵の厚い心遣いを感じ、二、三日後、水道端町の小出翁の閑居をみずから訪ね、「小出大人【うし】の和歌を乞はんとて詠める」という歌二首を持参して添削を願い、その日から贄(注・にえ)を取ることになった。(注・小出翁に入門した、の意であろう)
そのとき翁は、歌人になった来歴をみずから語ってくれた。「自分は少年のころ漢学を学び、好んで詩を作ったが、その後、歌を詠むことを習い、試作数十首をある歌人に示したところが、お前は自然の歌口があるから、歌を詠めば必ず上達するぞと言われたので、これより別段師匠にもつかず、ほとんと独力で勉強したが、本来、人には歌口というものがあって、学問の有無にかかわらず、詠み出づる言葉が、自然に歌になる人は、いわゆる歌口を持っている者である。ゆえに自分は歌を学ばんとする人に対して、まずその詠んだ百首ばかりを持参せしめ、その中にひとつでも二つでも歌口の調子があればよし、もしそれが見当たらなけれは、遠慮なく教授を断るのである。とにかく兼題(注・前もって与えられる題)をお渡しするから、ひとつ詠んで見られるがよろしい」ということで、船納涼、林蝉、蚊遣火の三題を渡された。
それから私は、翁が組織していた梔陰社【しいんしゃ】という歌の会に入り、その当座はなかなか勉強したものだ。
明治三十九(1906)年の末に、翌年の御勅題が「新年の松」というので、そのころ日露戦争がめでたく済んで日本は一等国となり、世間の景気も非常によいというめでたいことばかりが重なっていたので、私は、
よろづ代を経し老松もかくばかり 目出たき年はむかへざりけむ
と詠んで小出翁のもとに持参したところ、稽古が浅い割には、なかなか面白い詠みぶりだといって思いのほかの賞賛をいただき、それから先、私の一番町宅で、たびたび梔陰社の例会を開くことになった。
私の亡妻の千代子も会員に加わり詠歌の稽古をすることになったが、あるとき「森鶯」という題で、
鈴の音もたえて聞えぬうぶすなの 森の木がくれ鶯のなく
と詠み、そのときの秀逸となったことがあった。
これが私の歌道修業の端緒(注・はじまり)であるが、師匠についてからまだ二年とたたないうちに小出翁の物故にあい、たちまち良師を失ってしまったのは、まことに残念の至りであった。
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