百三十三 諸戸清六翁と穂積男爵(上巻460頁)
平沼(注・平沼専蔵。132を参照のこと)型の貯金家で、なお一層徹底しているのは、桑名の先代諸戸清六氏であろう。(注・先代1846~1906、二代目1888~1969)
明治二十八(1895)年ごろ、突然私を大阪の三井銀行支店に訪ねてきた彼は、体格が偉大で田舎びた容貌で、なんら飾り気のない率直さで私に大阪財界の実状を質問されたので、とにかく一風変わった男だと思い、とりあえずありのままに所見を語ったものだ。
聞いてみると、彼は年中あちこちを駆け回り、卒然として(注・突然のように)来て、卒然として去り、貴顕紳士の門を叩いて自分の聞きたいことを聞いては、それを参考にするというやり方をするのだそうだ。大隈侯爵の早稲田邸などには月に何回となく現れて、その経済談を聴取するのを常としたという。
私が東京に戻ったのちにも、知り合いであるという縁故をもってまたまた私を訪ねてきて、三井銀行の抵当流れになっている奥州の四竈村(注・現在の宮城県加美郡にある村)の野地の坪数はどれくらいなのかと問うので、さっそく銀行に問い合わせて返答すると、相変わらず風のごとく立ち去ったが、その後一週間ばかりたって飄然として例の巨体で現れ、さっそく四竈村の野地を見てきたが、その地勢はこれこれで地味はこれこれであると物語るので、その緻密さには驚嘆のほかはなかった。
さらに彼が語るところによると、
「俺は全国第一の山林持ちになるつもりで、岐阜、飛騨、伊勢、大和その他全国にわたって多数の山林を所有しているが、ある華族で俺よりなお多く持っている者があるから、今よりも、モ少し買い入れて、是非とも全国一になるつもりである。
俺の買う山林は、世間の人とは反対で、通常はすでに山林になってもはや手の入らぬものを所望するが、かかる山林は拓けるだけ拓けているから値段も相応に高くなっていて、なんの面白味もないのである。俺はヤクザの山林を安値に買って、これを盛り立てるのが楽しみなので、山林でも田地でも、とにかく出来上がらぬものを見つけようと全国諸所を駆け回り、どこにかくかくの山林、田地があると聞けば、即刻発足してこれを見届けるのが俺の常癖である。」
ということであった。
私はこれよりも以前、諸戸氏について、すこぶる面白いエピソードをきいたことがある。氏の倹約は有名なもので、汽車はもちろん下等に乗って、途中で買い入れた茶瓶は、すべて持ち帰るのを常とし少しでも無駄をしないという流儀である。かつてロシアの皇太子が大津で遭難(注・日本人の巡査に切りつけられた大津事件)の際、彼は図らずも同地に立ち寄ったが、その刃傷事件の大混雑で町内に人力車が見当たらないため、彼はよんどころなくテクテク歩いていた。すると後ろから、いい客だと見た人力車夫がしきりに乗るようにと勧めるので、目的地までの賃銭をきくと、事件のせいで思っていたよりも十銭ほど高いので彼はこれを値切った。だが車夫も足元を見て簡単には負けず、そのうち雨が降り出して双方ビショ濡れになっても、負けろ、負けぬで、ついに目的地に達してしまったのだそうだ。それである人が、着物が濡れる損失を考えて、十銭高くても車に乗ったほうが得ではないかと言うと、彼は頭を振って、「いやいや、商売冥利はそんなものではない。代償が思うつぼにはまるまでは、どうしても動かないのが俺の掟じゃ」と主張したそうである。
諸戸氏はまた例の早耳で、穂積陳重男爵が三井の家憲を作ったということを聞くや、誰の紹介もなく、ある日突然男爵を訪ね自家の来歴を物語り、なにとぞ諸戸家の家憲を作ってもらいたいと懇請した。その率直な態度と熱心な気魄とに穂積男爵は感じ入り、とうとうこれを引き受けることになった。ところが彼は、自分の書記を代理にして諸戸家に関する一切の書類を穂積男爵に提供し、その後一度も男爵に面会せず、ただ時々玄関までやってきて、よろしく頼むとひとこと残して帰るのを常とした。
こうして穂積男爵が二、三年かかって諸戸家の家憲を作成して彼に手渡すと、彼は満面に感謝の意を浮かべて、「先生のご鴻恩(注・大恩)は子孫代々決して忘却は仕りませぬ」と、幾度か叩頭して(注・頭を下げて)引き下がった。しかしその後は、ただ毎年、桑名産の白魚を贈ってくるをの常例として、そのほかにはなんらの挨拶もしなかったそうである。
穂積男爵はこのことを語り終えて、諸戸氏が自分の家憲起草に対してなんらの礼物を提供せぬことは、自分としていささかも遺憾とするところはない、あのような粒々辛苦をもって築き上げた一家が、自分が作った家憲によって長く存続することができるのなら、それが何よりの報酬である、と言われた。このふたりの人格を対照して、すこぶる興味深い逸話であろうと思う。
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