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百三十二  金色平沼の真相(上巻456頁)


 明治時代に横浜に盤踞(注・ばんきょ。根を張ること)して、その屈指の富豪と呼ばれた平沼専蔵は、一時、高利貸しだの華族倒しだのと非難された挙句、その高利貸し問題でとうとう獄舎の人となるに至ったので、彼のように世間から爪はじきになっては、金持ちといっても、ちっともその甲斐がないではないかと言う人もあったが、とにかく、天秤棒一本から何百万円の大身代に成り上がったその粒々辛苦を察しないで一概に悪魔視することを、私はしない。
 彼の金だって、やはり日本国の富の一部で、いかにたくさん貯まったとしても別に卑しむべきものでもなかろう。
 昔から日本には金を貯める者を卑しむ習慣があって、ややもすると、これを守銭奴と罵る者も多い。しかし金を貯めるのもまた、一種の趣味であろう。
 世間では往々に、あの男は子供もないのにむやみに金を貯め込んで、死んだあとにどうするのだろうというようなことを聞くが、この種の人物は金を貯めること自体が無上の趣味で、魚を釣る人が、釣るのがおもしろいので、その魚を食べるか食べないかは別問題であるのと同じく、金を釣る趣味がある人は、釣った金が貯まっていくのがこのうえもない道楽なのである。平沼氏などは、もっともこの種類に属する人なので、あまりに彼を憎悪するのはおそらく偏見ではないかと思う。
  わたしは明治二十二、三(188990)年ごろ横浜貿易新聞を監督した関係上、平沼氏と知り合いになり、会えば時候のあいさつをする程度の懇意になった。
 例の高利貸し問題で入獄した平沼氏が、ようやく娑婆の風に吹かれた当時、私は品川の益田孝男爵を訪問する途中に、新橋、品川間の汽車の中で平沼氏に邂逅したので、「貴方は先ごろ、とんでもない災難に出合われたそうだが、本来、東京だの横浜だのは、貴方のような商人の住むべき場所ではあるまい。納得ずくで金を借りながら、そのあとで貸した人を憎むというのは、借りた方が卑怯である。仮に貴方が大阪にでも住んでいたら、岡橋治助翁のような、貴方に一層輪をかけたような豪傑が控えているから、貴方などは一向に目立たず、したがって人からの指斥(注・非難)も受けなかっただろう。貴方はもはや関東を見限って、河岸を関西に替えたほうがよろしいのではありませんか。」と冗談半分に話したところ、平沼氏は、ただ「なるほどな」と言ったばかりで、別に異存も言わなかった。
 私はその足で益田邸に赴くと、富永冬樹(注・益田孝の義兄)氏が来ていたから、たった今汽車のなかで平沼氏とかくかくしかじかの話をしてきたと語ると、富永氏は例を毒舌をふるい、「それは平沼が頭を横に振っただろう、なぜなら、大阪には華族がいないではないか」と言って呵々大笑するのだった。
 私と平沼氏とは、このような通りいっぺんの関係だけであったが、明治四十三(1910)年ごろ、平沼氏が非常に大きな菓子折をたずさえて私の一番町宅を訪ねてきた。なにごとだろうと怪しみながら来意を聞くと、彼が抵当に取った木材を王子製紙会社の製紙用材に使ってくれないかという相談であったので、一応その用談を片づけたあと、かねてからきこうと思っていた彼の立志談を話してもらった。その大要を次に記す。(注・一部をわかりやすい表現にかえた)

 「私は若年のころ、渡邊治右衛門のところで奉公しておりましたが、身体が強壮なので、非常な勉強家(注・勤勉な人)でありました。酒はもとより飲まず、朝飯は味噌汁と煮豆を菜(注・おかず)にしてすまし、朝は四時ごろから起き出して、井戸端で水を浴び、神信心をすましたあと、夜遅くまで働くというところを主人に見込まれ、少し元手ができたので、そのころ黒船が横浜に来て石炭を買い取るのを幸いに、茨城地方から常州炭を仕入れ、小船で横浜に廻送し黒船に売り渡すのです。当時天保銭二枚くらいで仕入れた一俵の石炭を一朱で売ることができたので、実におもしろい商売でした。またそのころ生糸輸出が始まって、間もなく一時幕府でそれを禁止したとき、私は生糸を石炭箱の中に入れ、その上に石炭を盛り上げて外国人に売り渡し、これでは大儲けをいたしたのであります。」
と、平気で秘密を語ってしまうところに、平沼氏の面目躍如たるところがあった。
 彼は一時伊藤博文公爵に接近して、その愛顧を受けたこともあり、その後、彼が従五位に叙せられると、従五位ということが、なにやら彼を卑しむ一種の標語であるかのようにききならわされたこともあるが、このような平沼氏から私は菓子折ひとつを貰いっぱなしになったままで、今でも気の毒に思っている次第である。
 


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