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百三十一   安田松翁出世談(下)(上巻453頁)
 
(注・130「安田松翁出世談(上)」からのつづき)


 安田善次郎翁が一代で億に達する大富豪になるにいたったその経歴は、勤倹力行(注・勤勉倹約)の継続で、実業を志望する若者にとってはもっとも安全な処世訓であろう。
 さて翁が十九歳のときに江戸に出て玩具屋に奉公したのちの経歴談は次の通りである。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、一部の漢字をひらがなにしたほかは原文通り)


「私は玩具屋に奉公中、二十一歳ごろであったか、例のごとく旅行して、大和まわりをし、多武峰(注・とうのみね)の談山神社(注・たんざんじんじゃ)に参った時、矢立の筆で、御堂の柱に落書きしていたのを番僧に見つけられ、ことがはなはだ面倒になったので、懐中にあった一分二朱の中から二朱を罰金にして、ようやく無罪放免になった。そこにひとりの老僧が出てきて、仔細をきいて気の毒がり、番僧どもから二朱を取り戻してくれたうえに私に向かって諄々と教戒されたその言葉に、『お前さんもまだ年若であるから、以後はよく心得るがよい。楽書きというものは、昔シナで賊が官軍に追い払われて、右往左往に散乱するとき、神社仏閣の柱や塀に楽書きして、どこで重ねて廻り逢おうとか、または、再挙を謀ろうとかいうような、隠し言葉を書きつけるのが始まりで、本来、賊のし始めたことであるから、いやしくも未来の希望ある青年のなすべきことではない。以後は、きっと無用(注・やらないよう)にせられたがよろしい』と申されたので、これがしみじみと骨身に感じ、名を尋ねれば、村田亮順という老僧なので、その後五年ばかりを経て、村田上人の隠居された九州天草の寺院を訪ねると、惜しいかな、先ごろ遷化されたというので、泣く泣く墓掃除をして、いんぎんにその跡を弔ったのである。

 さて私の玩具屋奉公も、満三年になったので、今度は丸屋松兵衛、通称、丸松という両替店に奉公した。この丸松の店は、今の海運橋四日市にあったが、私はこの店にもまた、丸々三年奉公して、江戸の商売見習いが前後六年になったので、商店奉公は、まずこれで卒業として、今の日本橋新乗物町の十五銀行の支店になっているところに、借地ではあるが、間口二間、奥行五間半の家屋があったのを四十三両で買い取って、ここに安田善次郎独立の両替店を開いたのである。
 このころの両替賃というのは、当百(注・天保通宝。一枚で百文)、青銭(注・あおせん。寛永通宝四文銭)、文久(注・文久永宝)、錏(注・しころ。室町時代の銭)という四種類の銭を金銀に替え、また金銀を銭の換えるので、その切り賃(注・両替手数料)が、普通一両につき一文、仲間取引は八毛ないし七毛というようなことであった。
 このようにして私は両替商を始めて、ほどなくこの仲間の肝煎(注・世話役)となり、すこしは幅が利くようになったが、その当時、本両替屋というのが七軒あった。
 
 さて幕末の財成家の小栗上野介が、貨幣制度を改革することとなり、旧二分金を、新二分金に引き換える計画を立てられたが、そのとき沼間守一氏の父が御勘定方に勤務していて、旧二分を新二分に引き換えるため、旧二分金の集め方を(注・旧二分金を集めるように)例の七軒の両替屋に申し付けたが進んで応じるものがなかった。そこで沼間氏は私を呼びつけて相談されたので、私はさっそくこれに応じ、旧二分金の買い集め費用として沼間氏から金三千両を借り受けることになった。私が三千両という大金を見たのは無論このときが初めてで、餅版(注・トレイのようなものか?)が百二十あって、一つの重さが二百三十目(注・目=文目、または匁。一匁は約
3.75
グラムなので、230匁は約0.86キロ)というのであるから、それを受け取り自宅を持ち帰り、毎晩奉公人が寝静まったあと、家内とふたりで、あるいは屋根裏にかくしたり、縁の下にいれたり、いろいろ工夫をしたが、賊は両替屋に金があることを承知しているから、もし踏み込まれたときに手ぶらで帰すわけにもいかない。その時のためにということで、私はあるとき錏銭やら何やらを取りまとめて、金二十五両の包みと同型のものを三つ作り、ほかに五、六両の金を添えて、金銭出納帳とともに、これを用箪笥の中にしまいおき、賊来たらばこれを渡さん、と待ち構えていた。すると果たして、ある晩に強盗がはいったので、例の帳面とともにこの金を渡したが、翌日になってつくづく考えてみると、強盗が小判の包みを開けて中から餡(注・見かけとちがう中身)が出てきたら、きっと立腹して、復讐に来るであろうと、その心配は大変なものだった。しかしほどなくこの賊が捕縛されて、伝馬町で処刑されたと聞いて、はじめて安堵したようなこともあった。」


 以上、安田翁の出世談は、太閤秀吉の日吉丸時代から木下藤吉郎時代を彷彿とさせ、勤勉力行が、だんだんに人の信用を得て、着々と成功の機会を作りつつ、後日の大成を期したものである。その堅実なやり口は、これから実業界に立って大望を成就しようという有為の青年にとっては、最良の教訓だろうと思う。


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