【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

百三十  安田松翁出世談(上)(上巻450頁)


 日本開闢(注・かいびゃく)以来、明治大正の世にいたるまで、一代で大きな身代(注・資産)を築いた人は数限りなくいるが、その点においては安田松翁善次郎が断じて第一人者であると思う。徳川時代には紀伊国屋文左衛門が紀文大尽として名高いが、その当時の身代を今日の通貨に換算したとしても、何千万くらいにしかならないだろう。明治初期に三菱の基礎を築き上げた岩崎弥太郎氏も、死去された明治十八(1885)年ごろの資産は安田氏の晩年には大きく及ばなかったと思われる。
 私は安田善次郎氏と金銭上での関係を持ったことはなかったが、茶人の松翁に対しては、明治三十一(1898)年に彼が、わが寸松庵に来会して以来、あるいは本所横網の旧安田邸に出入りし、あるいはほうぼうの茶室で同席し、その交遊は二十年余りに及んでいる。
 また、翁の喜の字の祝い(注・喜寿、数え77歳の祝い)に茶友から祝歌をつのったとき、私は、


   君が身に集まる宝あまたあれど 羨ましきはよはひなりけり 


の一首を贈って、痩せ我慢を発揮したこともあった。
 翁は西洋人の、いわゆる、トップフロムボトム底より頭主義(注・底辺から頂点までのぼりつめる)で、石橋をたたきつつ一歩一歩その資産を築き上げた。その出世は、もっとも堅実な処世法をあらわしているので、私がかつて翁から聴き取った口述の内容をここに披露することにしよう。(注・一部現代的表現にあらためた


 「私は、越中富山の町はずれ、船橋向(注・舟橋=地名、の向かい?)で生まれた。父は安田善悦といって、御掃除坊主を勤め、城中に出仕し、主君の側から、家老、諸士の詰め所にいたるまでの掃除をつかさどり、五十人扶持、十両を頂戴していた。私は長子で、妹が三人もいたから、もちろん貧乏世帯だった。

 ところで私は、子供のときから手習い(注・習字)が好きで、また軍記物語を読むことが好きだったので、その軍記物語を写し取ってそれを読み、それをまた写し取るという写本を内職にしたほどである。その写本料が、半紙十行詰めで一枚三文、これを十枚写して三十文くらいの筆耕料を得るのであるが、日課としておおいに勉強したので、身の回りの費用は一切自弁(注・自己負担)で間に合わせた。その上に、いくらかの貯金ができると旅行に出かけるのが私の道楽であった。
 これよりも前、私がまだ八歳くらいの時、自分は何になろうかと考えて、はじめは職人になろうと思ったが、そのころ富山では千両の金持ちを田舎富限(注・田舎の富豪)として尊重したから、自分も一生のあいだに千両の身代になってみたいという希望をもっていた。
 ところがここに偶然私の奮発心を引き起こしたのは、私が父とともに富山の城下を往来する時、むこうから物頭、御勘定奉行などという役人が来るのを見ると、父は私の袖を引いて横丁にそれるのを例とした。これは、父が中以上の侍に出会えば下駄を脱いで土下座をせねばならないからである。
 当時、前田家では財産逼迫のあまり、東海道掛川宿の大根屋という大名金貸しから借金し、その主人が富山城下に来るときは、ひごろ私の父が土下座する物頭やら御勘定奉行やらが、うち揃って金主を町外れまで出迎えるので、これは侍になるよりも、金持ちになるほうが早廻りだと感じて、それで商人になろうと決心したのである。

 また私の奮発心を起こすのに大きく貢献したのは太閤記である。例のとおり、軍記物語が好きなので、しじゅう太閤記を愛読しているうちに、木下藤吉郎が後世に天下取りをするような大人物でありながら、草履取りから順序をふんで、だんだんに立身出世したのを見て、順序をふむ、ということは、すなわち成功の基であるとこの教訓を心に銘じ、終生これを忘れなかったのは、みなこの太閤記から得た教訓である。
 私は十九歳のときに、いよいよ江戸にでることになり(注・安政5年、1858年)、出府のあと、みずから好んで玩具問屋に奉公した。この玩具問屋には、軽子という、玩具を籠にいれてかついでまわる者がいるので、私はその軽子のところに住み込み、玩具を作る職人の宅を見まわって、できあがった玩具を取り集め、この玩具を卸すという仕事に当たった。軽子の年給は三両二分くらいであった。
 しかし商売見習いであるから、私は給料の多寡は問わず、二期の宿下がりにだけは、なるべく多くの休暇をもらって、諸国の商売視察のためおりおり旅行することを許してもらったのである。」


 以上の安田翁の直話はその出世物語の始まりの部分で、次回にはさらにこれを継続することにしよう。


【箒のあと(全)・
目次へ】【箒のあと・次ページへ