百二十九 東郷元帥の五字讃(上巻446頁)
対馬沖大海戦(注・日露戦争の勝敗を決めた海戦)の勝利の知らせによって高鳴った胸の鼓動がようやく収まってきた明治三十八(1905)年の暮れに、私は三越呉服店意匠部の画家である島崎柳塢氏に、悪鬼が逃げていく絵を描かせ、それを東郷元帥に持参し、
待汝之再来 乙巳冬 東郷書
という五字一行の揮毫を請うた。これに、鬼にちなんだ鱗形の裂と、追儺(注・ついな。おにやらい。節分の豆まきのこと)に縁のあるヒイラギの軸とで表装したうえで、わが寸松庵に掲げて歳暮茶会を催したことがあった。
その後十九年が過ぎ、大正十四(1925)年十二月十日、私は元帥の麹町上六番町邸を訪問し、かねてより願い置いていた私の自作の茶杓の筒に元帥が「山桜」と書いてくださったことと、茶室掛けの横幅に「清寂」の二大字をしたためてくださったことへの謝辞を述べてから、元帥に次のように話した。(注・一部現代文になおす)
「閣下はお忘れになったかもしれないが、バルチック艦隊全滅の年の暮れに、閣下にご揮毫を願ったことがあり、それは、閣下がロシアの艦隊を撃滅して、国家を富獄の安きに置かれた(注・「国家を泰山の安きに置く」の泰山を富獄=富士山に置き換えている。国家を安泰に導く、の意)ことは、私共がいくら感激してもしきれないことだが、勝って兜の緒を締めなければ将来どのような危険に出会うかわからないので、いったん逃げ出した鬼が、たとえ再び逆襲してきたとしても、いつでもこれを待つ用意があるぞという意味で、逃げていく鬼の絵に『待汝之再来』の讃をお願いした次第であります」
すると元帥は、「そんなことがあったか、今はすっかり忘却しました」とのことであった。
さて私は今回、元帥に対し、種々雑多な質問を行った。まず、茶祖の珠光(注・村田珠光)の標語である「清寂」の二字の揮毫をいただき、自作茶杓の筒に山桜の二字を書きつけていただいたのはなぜなのかということ、それからの会見の一時間のあいだにも、「元帥は禅学を修められたことがあるのかどうか」、「維新前後にはどのような行動を取られたのか」、「明治四年から英国に遊学した七年間の経歴はどのようなものだったか」などなどいう質問をした。しかし元帥の応答については、後段に譲ることとし(注・284「東郷元帥懐旧談」を参照のこと)、ここでは、対馬沖海戦に関し元帥が私の質問に答えられた談話だけを記述することにする。
明治三十八(1905)年五月、バルチック艦隊がウラジオストックに向かうにあたり、対馬沖を通過するのか、津軽海峡を回航するのかを予測することは、当時のわが国の海軍の作戦上、重大なことであったと思われるが、閣下はいかにしてあの艦隊が対馬沖を通過することを知り全力をこの方面に集中されたのかという私の質疑に対し、元帥は次のように答えられた。(注・一部現代的表現にあらためた)
「バルチック艦隊が対馬沖を通過したのは、おのずからその理由がある。およそ軍艦が戦闘を行おうとするときは、長時間にわたって全速力を保持する必要がある。ゆえに長航路を続けて積載石炭の欠乏したときに戦争するのは、実戦上、非常に不利といわねばならない。これが、バルチック艦隊が当然、短航路を取らないわけにはいかない理由である。
今、もし、かの艦隊が津軽海峡を通過するとすれば、航路が非常に延長するから、途中において石炭の手薄になることは必然である。このとき、わが艦隊と衝突するのは不利なのは彼らも十分熟知しているはずだ。そのうえ五月ごろは、かの方面に海霧の多い季節で、敵地を航行する大艦隊は、これをもっとも避けなければならない。それらの理由を総合して、戦術上より判断すれば、かの艦隊は断じて津軽海峡を回らぬことを自分はかたく信じていた。
そのうち五月二十五日、バルチック艦隊に付属していた運送船三艘が上海に入港したという報知を得たので、自分はいよいよその信念を強くしたが、これは彼らの大失策であった。
あの艦隊が、もしその進路をくらまそうとするなら、この運送船をあと二、三日海上に留めて、上海入港を遅延させなければならないのである。運送船が上海に入港したということは、これに積載していた石炭を、台湾付近において全部バルチック艦隊に移し終わった事実を説明するので、この知らせを受けたあとは自分はあの艦隊が予想通り対馬沖を通過するものと見て、おもむろにこれを待ち受けたが、これは海軍の戦術上、当然かくあるべきはずなのである」
私は、東郷元帥から親しくこの談話を拝聴し、ながいあいだ抱いていた疑問が氷解した。それと同時に、元帥が明治初年にイギリスにおいて海軍の修業中、最下級の仕事までも体験して石炭消費などのこまかい仕事もこなしたことが、主将としての実戦上の判断の役に立ったということに敬服せざるを得なかった。
この日私は、ときどき東郷邸に出入りしている故下條桂谷画伯の高弟である八木岡春山を同伴してうかがったのだが、最初に八木岡が元帥を訪問して私が揮毫を願い出た理由を説明したとき、元帥は私が旧水戸藩士だということをきいて、「さては、聞き及ぶ高橋多一郎(注・桜田門外の変の首謀者のひとり)の一族ではないか、もしそうなら、日下部伊三治(注・原文では伊佐治になっているが伊三治が正しく、読み方は「くさかべいそうじ」)の縁続きで、あるいは自分と遠い親類になるのではないか」と尋ねられ、さっそく私の訪問を許容されたという次第である。水戸藩勤王の目に見えない恩恵が、このような場合にも影響するものかと私は感激の至りにたえなかったものである。
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