百二十八 能楽翁の神秘(上巻443頁)
能楽では、「翁」を二百番中の首位に置き、舞台開きとか正月の舞い始めという場合に、きわめておごそかにこれを演じることとしている。かつて梅若実翁は、
「この能は神体にかたどったもので、翁は天照皇大神宮、千歳は八幡大菩薩、三番は春日明神としてあり、また天下泰平、国土安穏の御祈祷を演じるものなれば、徳川時代には将軍家でさえ、いわゆる別火潔斎のうえで、これを演じるのを常とした。しかし時世の変遷で、近頃はだんだん簡略になってきましたが、私共は古風を守って、これを勤むる前には必ず精進潔斎いたします。旧幕時代には、将軍自身で勤めらるるほかは、観世太夫がこれを勤め、私共は家格として千歳を勤めましたが、かの天下泰平、国土安穏のところに至れば、将軍も両手を膝に置いて、少しく頭【つむり】を下げらるるのが常例で、能楽はこの翁によって、大に重きをなすものであります」
と語られた。
その後、古市公威男爵から聞くところによると、「翁」という能は昔から神秘物とされ、これを勤める者は精進潔斎するのを常とするが、知らず識らずにこれを犯すことがあると不思議と何かの異変が生じるものだという。
旧幕時代に、梅若実が観世太夫の翁のツレを勤めたとき、実夫人が当日に、翁が装束の腹巻を取り落としたことに気づき、実翁のところへ使者に届けさせた。が、その後、夫人が月経時であったことを思い出したが、もはやどうしようもなかった。いっぽうの実は、その腹巻を締めて千歳を舞ったが、大切(注・おおぎり。最後)の足拍子のとき、不思議なことにその足が大口に引っかかり拍子を踏むことができなかった。それで拍子の代わりに身をかがめて舞い納め、なんという失策をしたことかと思って観世太夫に詫びたところ、太夫はそれを咎めなかったばかりか、謹慎の形になっていてかえって上出来だったと褒めてくれたのでまずは安心しはしたが、いかにも不思議なことだと思った。帰宅して夫人から先の一部始終を聞き、「実におそろしいことだと思いました」と、実翁からきいたのだそうだ。
また私が、その後この話を梅若六郎氏に話すと、氏はさらに次のような実体験についてきかせてくれた。(注・現代的表現になおした)
「『翁』という能は、私共にとっては実に恐ろしいお能で、これを勤めるときには、非常に心配になります。
私の母が亡くなった大正五年の一月、私が翁を勤めまして、自分でも気づかずに一句飛ばして謡い終わり、あとから人に注意されて、そのようなことがあるばずなないと不審に思っておりましたところ、ほどなく母が死去しましたので、これがその前兆ではなかったかと思い合わされたのであります。
また大正十二年、あの大震災の年に、私が翁で、梅若進が千歳を勤めましたとき、不思議にも、舞の間に、彼の差していた刀の柄が折れていたのを発見して非常に驚いておりますと、かの震火災の際に逃げ遅れて、家内と子供と三人ともども全滅しましたので、さては、と非常に驚愕したような次第で、翁ほど怖い能はありませんから、これを勤めるときは、精進潔斎して戦々兢々、舞い終わるまでは、少しも気を許すことができないものであります」
ということであった。
以上の体験談を聞いて、おおいに思い当たるのは、古来、日本の芸術家が大切な仕事をするときには精進潔斎をして神仏に祈誓し、もろもろの不浄を遠ざけて身心を爽快にすることにつとめるということである。三日間の別火だの一週間の精進だのといって、六根清浄を旨とする習慣がある。
刀鍛冶が名刀を鍛えるときには、仕事場の四隅に注連縄(注・しめなわ)を張り、その身も精進潔斎して鉄槌を持つということであるし、能役者が翁を勤めるときには、前記のように日を限って別火をするなどの習慣がある。これはただ、その仕事の神秘に対しての謹慎というばかりでなく、そのように身心を清浄にして十分に気根を養っておけば、意識も自然に明瞭になり、仕事を仕損じる危険率が減るはずだということからなされているのだろう。
つまり昔の人は、神仏にかこつけてこのような習慣を作ったのだと思う。能楽のような芸術を演奏するには、謡といい型といい、また拍子といい、その関係がきわめて複雑なので、酒を飲んだり夜更かしをしたり、その他身心の倦怠を生じてしまうような不摂生があると、その結果が芸術の上に現れ思わぬ不覚を取ることになるのだろう。
これは能楽の話というだけでなく、社会全般の仕事に当たる者がおおいに心得ておくべきことで、能役者が大切な能を勤めるときのような心をもって事に当たれば、必ず仕損じることがないはずである。上記の体験談は、誰にとっても非常に大切な教訓であろうと思う。
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