百二十七 能楽実演の興趣(下)(上巻440頁)
私が能楽の実演をするにあたり一番はじめに勤めたのは「猩々」だった。そのときのワキは大友信安で、明治三十五、六(1902~3)年ごろのことであったと思う。梅若舞台の鏡の間で面をかぶってみると非常に窮屈で、顔の中がむずがゆくなったり、ひげがさわって掻きたくなったり、そのうっとうしさはなかなか厄介だった。そのうえ、ふさふさとした猩々の蔓(注・かずら)を頭の上に載せられたときには、目がぐらついて気が気でなく、いよいよ舞台に掛かったら謡の文句や舞の手を間違いはしないかという心配も加わり、よせばいいのに、とんだことを始めたもんだと、いまさら後悔してみてももう間に合わない。是非もなく舞台に踏み出してみると脚元がふらふらして危なっかしくてたまらなかったが、そのうち少しは精神が落ち着いて、「枕の夢の覚むると思へば、泉はそのまま、つきせぬ宿こそめでたけれ」と舞い終わったときは、やれやれと思ってよみがえったような思いがした。それから楽屋に引っ込んで来ると、梅若実翁が例の調子で、最初としては上出来であると、そこここを褒めてくださった。
褒められてみると二回目を試みたくなって、次第次第に深入りすることになったが、私が一番困ったことは、明治四十二(1909)年十一月に梅若舞台で「花筐」をつとめたときのことだった。王子製紙会社の専務取締役となって近いうちに北海道の苫小牧工場に出張することになっていたが、今や装束をつけてまさに舞台に掛かろうとしたとき、急用の電話が掛かってきたというのでその電話の内容を聞いてみると、工場におおいに関係した突発事件が起きたという知らせで、私は即刻北海道に出張しなくてはならなくなったのである。このとき、誰かが気を利かせて、しばらくこの知らせを差し控えてくれたらよかろうに、今や舞台に登らんとするときだったので、おおいに神経が乱されたばかりでなく、この能は、最近職務多忙となって稽古が十分でなかったので、あの最も難関の、「帝ふかく歎かせ給ひつつ」というクセのあたりから、われながら調子が悪くなったことを感じ出した。私は、かつて水戸黄門光圀卿が小石川水戸邸の能舞台の楽屋で、藤井紋太夫を成敗したあと五代将軍から賜った唐織の装束をつけて千手の舞を舞い、すこしも平常と変わるところがなく、ツレが絶句したときにも注意してやったということを聞いていたので、今さらのようにそれを思い出し、聖凡の差はこんなにも激しいものかと思い知ったのである。
今のは私の演能の失敗段であるが、だんだん修業を積むにしたがって、必ずしも失敗ばかりではなかった。明治三十九(1906)年ごろ梅若舞台で「弱法師」を演じたとき、実翁の夫人が稽古中から気にかけて見ておられたそうで、この能が済んだあと稽古をしてくれた六郎にむかい、「万目青山は心にあり」というところで、扇をさっと胸に当てると同時に、二足下がって心持(注・ゆとり)のある工夫が、今日は稽古のときよりもズッとよくできました、と言われたそうだ。夫人は長年、良人や令息の演能を見ているので観能眼は非常に高く、実翁が何か難しい能を演じるときは、打合せの際、夫人に見てもらって意見をきかれたそうだ。そういうとき夫人は、どこそことは批評せず、ただ簡単に、上出来だとか、不出来だとかと言われたそうだが、実翁はこれをきいて、いろいろと工夫を凝らされたという。この夫人からこのような讃辞を受けたのは、私にとっては誠に満足なことであった。
前に申した(注・126を参照のこと)ように、能は腹芸で、所作を簡単にして、ごく上品にその心を見せるもので、なにごとも腹の力が肝腎である。たとえば、物ひとつ見るにも、なにげなく、ただフイと見たのでは、何を見たのかその趣が現れないから、能楽において物を見るには、まず腹に力を入れて、見方がそれぞれに変化するのを見物人に見分けさせるのがもっとも難しいところである。
葵上で「水くらき沢辺のホタルのかげよりも」と扇をやって、蛍の飛び行くさまを見るのと、松風で「沢辺の鶴こそ立ちさわげ」と、左右左と、弦の飛び行く態(注・てい。ようす)を眺めるのと、山姥で「峰に翔り(注・かけり)谷にひびきて」と、高山の峰から深谷の底まで見下ろすのと、景清で「ぬしは先へ逃げのびね」と、三尾の谷が逃げていく後ろを見送るのと、藤戸で「我が子返させ給へや」と、ワキの盛綱をにらめつけるのと、その見方はいろいろ違うが、つまり、腹に力がはいって、眼に移り、その眼の光が面から抜け出して見物人に伝わるので、ただうかうかと物を見てもその表情が発露されるものではないのである。
私などはまだまだ未熟なものだ。ことに、一年に一度か二度の演能であるから、とうていその妙境に達することはできない。しかし、他人の演能を非常に興味深く見ることができるのは、能楽を実演をしたおかげだと思っている。
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