百二十六 能楽実演の興趣(上)(上巻436頁)
私が謡曲を稽古しはじめたのは、前述(注・73を参照のこと)したとおり明治二十六(1893)年からである。大阪滞在中に少し宝生流をかじり同時に仕舞も稽古し、多少は方向が見えてきたところで東京に帰ることになり、その後すぐに梅若流に改宗したのである。
三井の同僚のなかには素謡(注・すうたい。囃子、舞をともなわず謡曲だけを謡うこと)の仲間が多かったので自然と稽古に励むことになり、明治三十六、七(1903~4)ごろには、重習物(注・おもならいもの。免状を得るための歌の等級のひとつ)もほとんど卒業したうえ、毎度、催能を見物しているので、素謡だけでは物足りなく感じるようになってきた。
そこで、いよいよ能楽の稽古を始め、素人能の仲間入りをすることになった。「猩々」を演じて初めて舞台に立ったのが三十六年ごろだったと思う。
それから一年に二、三回は演能を試みた。多くの場合は梅若舞台だったが、その後、私は、能楽会長の故蜂須賀茂韶侯爵の勧誘により能楽会役員の一員になったので、蜂須賀侯爵らとともに名古屋に赴き、同地の能舞台で「弱法師(注・よろぼうし)」を演じたこともあった。
とかく素人というものは大物に食ってかかりたいのが常で、私などもご多聞にもれず、これまでに、鉢の木、隅田川、俊寛、弱法師、井筒などという九番物を好んで実演してきた。そのほかにも、松虫、清経、女郎花、百万、三井寺、盛久、山姥、花筐、蝉丸、弦上などを勤めた。最初のうちは万三郎、六郎兄弟(注・両人とも梅若実の実子)の教授を受け、その後もっぱら六郎氏(注・のちの二世梅若実)について稽古することになった。
さて、能楽を修業してみると、東洋芸術のならいで、その帰着点はいわゆる腹芸にあるということがわかる。もっと難しく言うと、能禅一味(注・能と禅は一体である)で、物我一如(注・他者と自己の境がない)であることを極致とするのだから、どこまでいっても際限がない。究めれば究めるほど、いよいよ難しくなるようである。
もっともこれは、どんな芸道においてもみな同じである。しかし、能楽はとりわけ様式が簡単で練習によってその効果を現わすものなので、他の諸芸に比べて一段と難しいものだと思う。第一、能楽は、舞を構成している手振りが少なく、たとえば、左右、打込、披き(注・ひらき)、差廻し、差分け、飛返り、打合せ、身を替え、上げ扇、ユーケン、翳し扇、雲の扉、捲き返しなどという舞型が、全部で二十種くらいしかないので、これをさまざまに組み合わせたところで、普通の舞踏の手振りに比べれば、きわめて簡単なものなのである。
また舞台には、芝居で使うような写実的な書割(注・舞台の背景画)がなく、たまに小道具を持ち出すことがあっても簡素な形式を示すにすぎないので、背景の力で演芸を補足する度合は芝居とは比較にならない。例えていうなら、芝居は、全幅にコテコテに描き詰めた彩色画であり、能楽は筆数が少なく一点一画に力のこもった水墨画のようなものである。彩画のほうは、画面に現れた形状によって、見る者は、その図が何を描いたものであるかを知ることができるが、墨画のほうは、その筆力ひとつによって、見る者の脳裏に、写実ではない真髄を感じさせるのである。だから、非常に多くの修練を重ねる以外には、その妙境に達するのは不可能だと思われる。
能楽は、一口に、二百番というが、現在、各流派において通常出される演目は、おおむね五十番内外にすぎない。この道の専門家は、この五十番を少年期から老境にいたるまで、場合によっては一曲を数百回も実演するのであり、その時自分の身も魂も演じる人格になり切り、まったく物我一如となるのである。その心意気が観客の心眼に映り、大きな感動を与えることになる。これがいわゆる腹芸ということである。
東洋の芸術の帰着点は、どれもみな同様であるが、能楽はとりわけその観が強い。つねに丹田に力をこめ、足ひとつ踏み出すにも、物ひとつ見るにも、まず腹から力が出るようにならなければ、その奥義に達することはできないのである。
私の経験によると、一番の能には、必ず一、二か所の難関があり、これを通過するには何遍も丹念に稽古するほかはないが、練習の功を積み、その要領を会得したときのよろこびは、また格別なものである。思うに芸術とは、演じるたびに毎回同じにできることはなく、あるときには自分でも知らずにうまくできたことが、次に同じようにやろうと思っても同様の味わいを出せない場合が多い。
かつて梅若実翁が、「弟子の勇治郎が『東北』を稽古しているとき、『池水に映る月かげ』といういうところで、扇を上げて下を見た形がいかにもよかったので、今一度そこをやってみろと申しましたところが、今度は私の思うようにいかなかった。この、いかにもうまかったのは自然にあらわれた妙所で、幾度でも同じうまさにできるようになれば、いわゆる名人となるのであります」と言われたが、能楽演奏の興趣は、このあたりのところにあるのだろう。
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