百二十五 九州の実業大家(下)(上巻433頁)
九州の炭鉱業者の中の巨頭といえば、なんと言っても亡くなった貝島太助翁である。
翁は工夫(注・炭坑夫のことか)から成り上がった人で、体格が頑丈で親分らしい容貌を備えていた。非常に寡黙であるが真摯で誠実なところがあり、おおぜいの工夫たちから神のように崇拝されるだけの徳望を備え持っていた。
私はあるとき直方町の貝島邸を訪問し、翁がみずからの好みで建てたという和洋折衷の三階建ての奇妙な大伽藍のなかで翁の懐旧談をきいた。
翁は明治三十一、二(1898~99)年ごろ炭鉱不振で非常に困窮していたが、ある日のこと数台の人力車が門前に着いたので誰が来たかと出迎えてみると、それが井上(注・馨)伯爵馨夫妻であった。驚いたり喜んだりしながら座敷に招きいれ来意をきくと、「維新前、変名してこの辺を往復した昔を思い、久しぶりで再び旅行したのであるが、家内が不浄(注・洗面所)を借りたいというので、見れば不思議な家構えなので突然立ち寄った次第だ」と言われる。これは冥加至極な(注・ありがたい)ことと思い、問われるままに自分の出生から現在の炭鉱事業の状態を物語った。すると伯爵は非常に同情し、「今、資金がどれほど必要なのかをさっそく調べて、山口の宿まで申し送るように」と言われた。これは地獄で仏に会ったような思いで詳しく計算して提出したところ、伯爵は毛利家に関係のある下関第百十銀行や三井銀行などに相談して、相当額の資金融通の道を開かれた。「このときの拙者にとって、轍鮒(注・てっぷ)が水を得たような思い(注・わだちにはまってあえいでいたフナが水をもらって生き返るという故事)で、伯爵の恩義にたいしては終生忘れることはできません」と、翁は非常に感激して語られた。さらに、「世には不思議なこともあるもので、拙者の考案で作られたばかばかしい家が侯爵を引き付けて私と侯爵の関係が起こったのだから、この家は拙者にとって実に大切な建物であります」と最後は大笑いになった。貝島家は、井上伯爵の指示にしたがい立派な家憲を作成し、後継者にも恵まれ、今や九州の大家として隆々たる声望を博している。これも、太助翁の長年の誠実の報いだというべきであろう。
九州の実業大家の中には、赤銅御殿で有名な伊藤伝右衛門氏もいる。氏もやはり炭鉱業でその富をなしたひとりで、腕一本からたたき上げた人物だから、この種の人に共通する粗豪なところがないわけではない。しかし、なんら腹蔵のない率直な気質で、いかにも男らしい男である。私は東京でしばしば氏に面談する機会があったが、あるときは、かの白蓮夫人の噂も出て、すこしばかり礼讃の口吻をきかされた(注・のろけ話をされた)こともあった。
その後に破鏡(注・離婚)の事件が起こると、世間はかの才媛に同情し、大江山で(注・酒呑童子のしわざで)さらわれた姫君のように言う者もあったが、才媛ともあろうものが先方の人格を見誤っていったん嫁いだとするなら、ただありふれた離婚沙汰として終わりにするべきだ。才媛がそれについて、なにか感想談を発表したともきいたが、私はそこになにが語らているのかを知らない。しかし、楽毅(注・がくき)は国を去って悪声を放たず(注・中国戦国時代の故事。絶交した人の悪口を言わない)ということもあるので、もしそれが少しでも前夫の名誉に関係するようなことならば、あまり感心したことでもないのではないかと思う。伊藤氏はこの事件では思わぬ噂の種をまいたが、とにかく九州の大実業家であることにかわりはない。
次に、平岡浩太郎氏は福岡の出身で、実業と政治の両方面で活躍した。日露戦争後の炭鉱業の好景気時代には政治の世界でも相当の手腕を試みた。氏は豪放ななかに無邪気な面を持ち合わせ、日露戦争がはじまり旅順の陥落が心配されたとき、「我輩の部下を別働舞台として、すぐに旅順を乗っ取る成算がある」と人に向かって大言壮語したこともあるなど、すこぶる愉快な人物であった。
氏は宴席で興に乗ると、田村の謡曲を謡うのが得意だった。その朗々たる音声はいまでも耳に残っているほどだ。また羽振りのよかったころに買い集めた美術品のなかに、趙氏昂筆の陶淵明の絵巻物一巻があって、私は最初にこれを見たときにはまったく気づかなかったが、その後、松平不昧公が編纂した古今名物類聚のなかに名物としてこの一巻が載せられていることを発見したので、平岡氏に知らせようと思いながら氏の物故によってそれが果たせなかったことは残念だった。
また氏の福岡の自宅には神屋宗湛の古茶室があったので、私は氏を訪問したときに親しくこの茶室を一覧したが、今日なお現存していることだろうと思う。
氏の壮時には、玄洋社の遠山(注・原文ママ、頭山満)、杉山(注・杉山茂丸)らと肩を並べたほどで、おのずと国士の風があった。晩年の炭鉱不況時代に長逝されたことは、まことに遺憾であったから、私は翁の訃音をきいて、霊前に次の巴調(注・自作の詩歌をへりくだっていう)一句をささげた。
国の為め心つくしのますらをに 手向くるぬさは涙なりけり
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