百二十四 九州の実業大家(上)(上巻429頁)
私は明治三十一(1898)年に三井鉱山会社の理事を兼任し、この翌々年ごろから例の三池築港事業がもちあがったので、職務上、何回となく九州に出張することになった。そして同地の炭鉱業者や、その他の実業大家と接触する機会が多かったので、そのなかの主な人々について、きわめて簡潔な所見を述べることにしたい。
私が九州に出張するようになり最初に知り合いになったのは野田大塊【卯太郎】である。当時三井は、三池地方の有志者と密接な関係を結ぶため、また同地方の利益をはかるために三池に三池紡績会社を設立し、野田氏を社長とし永井純一氏を取締役とした。よって私が三池炭鉱に出張するときは、いちばんに三池紡績会社の社長である野田氏に面会するのが当然で、滞在中はほとんど毎日のように会談した。
氏はもともとは豆腐屋のせがれで、二十貫あまり(注・一貫は3.75キロ)の大きな力士のようだった。九州訛り丸出しで一見気楽な人物のように見えて内部には機略を持ち、後年には政友会の領袖(注・副総裁になっている)となり、逓信大臣にまで出世した。もともとの資質において人よりすぐれたところがあったからであろうが、政党者に見られがちな持って生まれた「ぬーぼー式」が、おそらくその境遇にうまく合致したためだろう。
井上侯爵などは最初から野田氏を田舎者扱いにして、三池紡績会社が原綿の買い付けで大損失をこうむった時、「あんな粗造な頭に計算などがわかるものか」と口癖のように罵ったものだ。しかし、どこかに一種の禅気があって、円転滑脱(注・そつなく動きまわること)の妙をそなえていた。かつて鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅したこともあり、大事にあたってもあわてず、「ソレでよかたい」を連発し、大口をあいてワッハッハーとわらいながら相手を煙に巻きながら用件をまとめていくところに、なんともいえない機知と策略があった。
特別に学問をしたようすはないのに、ときとして発句を詠むこともあり、私が音羽護国寺で石灯籠供養会を開いたとき(注・270「名物形石灯籠供養」を参照のこと)には、大塊宗匠がひょっこり現れて芳名録に即吟一首を題した。それは、
供養塔衆生済度の光かな
という句だった。しかし、宗匠一代の秀逸な句というと、
天下取る子は大の字の昼寝かな
というもので、大塊がその名のとおりの大きな図体で、雷のようないびきをかきながら大の字になって寝ている姿が、なんとなく水滸伝の花和尚魯智深(注・かおしょうろちしん。全身に刺青のある怪力の持ち主)をしのばせるようで、九州の豪傑としてはまず第一にあげなければならない人物である。
また永井純一氏は、その名のとおり純情一誠の人格者であった。かつて参議院議員にもなり九州自由党のなかで重きをなしていたが、いかにも謹言で重厚なその態度が野田氏の女房役としてもっとも似合っていた。
安川敬一郎男爵も、九州の実業家では唯一の男爵であるということからも、ほぼその人柄を察することができるだろう。私が男爵と出会ったのは、明治二十六(1993)年ごろ、私が三井銀行の支店長として大阪に滞在中の、男爵がまだ資産家になる前のことだった。
自家の石炭売りさばきの道を開くために来阪し、また山陽鉄道に目をつけて、その株を買収するために三井銀行と取引しようとして、その用談のために来店した時が男爵と私の初対面だった。
男爵は、令兄の松本潜氏が福岡の儒者であっただけに、相当の漢学の素養もあり、後年、自分の部下にあたる使用人に論語の講釈をきかせたときの筆記録を私に見せてくれたこともあった。いかにも堅実で、円熟味のある君子であった。
炭鉱の経営が本業ではあるが、国家的な見地からシナ方面の商工業にも関係し、九州随一の大家となって、三百万円の資金を投じて学校を設立するなど公共事業にも広く尽くした。そのために男爵に叙せられ、貴族院議員になり、九州地方に重きをなすにいたったのである。
今では高齢の八十を超えて老健ぶりはさらに衰えず、事業の相続者も得て家業もますます繁昌しているというのは、さだめて積年の善行の余慶というべきであろう。
貴族院議員の麻生太吉翁も私の知り合いの一人である。翁は福岡県嘉穂郡飯塚村の代々の庄屋の生まれである。少年時代より炭鉱事業に関係し、今日見るような地位を築き上げたセルフ・メイド・マン(注・通常は、貧しい生まれからみずからの才覚でたたきあげた人をさす)で、筋骨たくましく、運慶の彫刻した二王尊を見るようだが、思慮周密で、石橋を叩いて渡る流儀なので、今は九州でも屈指の大資産家になった。
先年、百二十五万円で炭鉱のある山を三井に売却したとき、その記念のために、その高額の現金を座敷に積み重ねてみようと、門司の日本銀行支店から同額に紙幣を取り寄せ、蓬莱山(注・中国古代の想像上の神山。仙人が住み、玉の木がはえていた)のようにそれを飾った床の間の前で、めでたく祝宴を開いたという。いかにも代々庄屋の旦那らしい稚気に満ちたふるまいで、麻生翁の立志伝の一ページを飾るにふさわしいエピソードであろう。
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