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 百二十三 
三池築港の功徳
(上巻426頁)

 明治二十一(1888)年末、三井が三池炭鉱を落札したあと、団琢磨のち男爵氏が実際の経営に当たり、この炭鉱を三井の宝庫とするためにふたつの大事業を完成させた。
 そのひとつは、九州地震(注・明治22年)のために大きな浸水が生じた勝立坑に、明治二十三(1890)年に(注・詳細は未調査だが、史実は明治26年か28年ごろか?)、イギリスの、世界最大のデビーポンプ(原文「デビー卿筒」)を据え付け、その排水に成功したことである。
 ふたつめは、明治三十三(1900)年ごろから計画がはじまった、三池炭鉱から出炭した石炭を輸出するための大牟田湾の築港であった。
 私は勝立坑排水事業とはなんの関係も持たないが、明治三十一(1898)年から鉱山会社の理事を兼任したので、築港計画が起こってから完成するまでのあいだは団氏の助役になるという光栄に浴した。団氏がこの事業を成し遂げるまでにどれほど苦心したかということを十分に承知しているので、その大要をここに記すことにする。
 団氏は、イギリスから輸入したポンプで勝立坑の浸水の排除に成功したのち、さらに万田の竪坑の開削を行い三池炭鉱の出来高はますます増加してきた。この石炭を上海、香港などに輸出するには、まず小船で三池から長崎まで運び、長崎で汽船に積みかえるという二重三重の手間がかかっていた。一歩進めて、汽船を口ノ津港に寄港させて三池からの石炭運搬の距離を短縮してみたものの、例の青筒汽船(注・英国の汽船会社、ブルー・ファンネル・ライン。青い煙突のためにこの名がある)などの船がだんだん大きくなり一万トン以上になるものもあったので、三池の未来のためには大牟田港を築港することが利益になることは明らかだった。そして一万トン以上の大きな船をこの港に寄港させ、炭鉱から掘り出した石炭を港口で本船に積み込めるようにしようというのである。
 このあたりは潮流の干満が激しいというので、最初は水門を二重にする計画で予算を立てたが、費用の点を考慮し工夫を重ねた末に、最終的に一重の水門の案を採用することになった。築港費用三百万円で工事を進めたが、この港を石炭積み出し専用にしてしまうと九州全般にその恩恵が及ばなくなってしまうので、石炭は内港で積み込むこととし、外港は公共の貨物積み下ろしの便の供することになった。すなわち三池港の一部は公開港として、九州地方の運送業のために使用されることになったのである。そのため地元は繁昌し、三池町はほどなく市になるなど、三池港は公私にわたって貢献することになったのである。しかも築港の仕事は順調に進行し、なんらの支障も出なかったため、外港を築造するという臨時支出があったにもかかわらず、結局、予算三百万円の一割程度で落成した。じつに大成功であったと言えるだろう。

 団氏が技術的な知識と事務的な能力を兼ね備えていたために、第一の浸水排除事業、第二の三池築港の二大事業を完成し、三池鉱山を完璧な三井の宝庫になしとげたのである。この人材を経営者として得ることができたことは三井家の大幸運であったと言わざるをえない。
 私は以前にも、三井が三池鉱山の落札のときに団氏を併せて獲得できたことは非常に幸運だったと言ったことがある(注・57「三池炭鉱」を参照のこと)が、三井財国の総理となってからの団氏についてもまだまだ語るべきことがあるので、また後述することにしよう。


築港に対する感想(上巻428頁)

 三池築港は九州における一大土木工事だった。文禄征韓の役(注・16世紀末の朝鮮出兵)のときに太閤秀吉が肥前(注・佐賀)の名護屋(注・原文では名古屋)に施した出征準備の工事もおそらくかなり大規模であっただろうが、いまではその遺跡を確認することができない。
 そのほかの九州の大土木工事というと、その第一は熊本城になるだろう。これを三池築港と比較するとしたら、はたしてどちらが大がかりだっただろうか。私は、三池築港の工事中にたびたび三池に出張したが、そのついでにある日のこと熊本城を参観した。そのときふと頭に浮かんだのは、近代文明の施設と封建時代の事業とのあいだには、大きな違いがあるということだった。

 加藤清正が熊本城を築いたときの経費は、はたしてどれくらいだっただろう、もしかすると三池築港費以上にかかったかもしれない。しかしこの城は、築城されたのちにいかなる実効をもたらしただろうか。徳川時代には城主の威光を隣国に誇示するという功徳はあったかもしれないし、維新後の西南戦争の際に薩摩軍を食い止めるという効能も大きかったかもしれない。しかし一般の民衆に対してなにかの功徳を及ぼしたかどうかというと、かつて何一つ利益を与えたことがなく、今後もなおさらそのようなことはないだろう。
 この点にいたると、三池築港は単に現在だけでなく、炭鉱がことごとく掘りつくされたあとまでも、いや九州が存在する限り、利用厚生の恩恵を末永く子孫に残すことになる。この功徳の深さの違いは比較することすらできない。
 このように考えれば、たとえ最初の動機は利殖のためであったとしても、築港を完成させた資本主としての三井や、計画者としての団男爵の功績は非常に大きかったとしなければならない。私も、末席ながらこの工事の遂行に一員として加わり足跡を一隅に残すことができたことは、まことに望外の幸せであると思っている。
 


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