百二十二 日本百貨店の先鞭(上巻422頁)
越後屋は、元禄の昔に「現金掛値なし」だとか「反物小切売り」だのという先端を行く呉服小売り法を始め、非常に繁盛するにいたった。
「翁草(注・おきなぐさ。18世紀後半の神沢杜口による随筆)」には「越後屋の繁昌言はん方なく、芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両と称へて、江戸の一所にて一日千両の商売あるものに数へらる」とあり、また新井白石の「紳書」にも「駿河町越後屋二の店にて、一日金千両平均の商あり、一年三十六万両越後屋に入る程に、夫れ程本町衰へたり」とある。また、俳人の其角(注・宝井其角)が、
越後屋が絹裂く音や衣がへ
と吟じたその越後屋では、二百十年あまりのちの明治二十八(1895)年から再び、私の手で先端を行く改革を始めることになった。
同三十七(1904)年には独立して株式会社になり、その後すぐに、さらに組織改革を行い日本百貨店の先頭に立つことになった。
このときの組織改革で三越専務になったのは日比翁助で、常務は藤村喜七であった。百貨店としての完成は、このふたりの力に負うところがもっとも大きかったと思われる。
日比は明治三十一(1898)年、私が三井銀行から連れて来て支配人にした男で、慶應義塾出身の久留米(注・現在の福岡県久留米市)の人である。正直で勤勉な人で、仕事に熱中するタイプであり、三越を百貨店にする準備のための調査で欧米諸国を視察してもらうことになった。その留守は藤村が守り、私も顧問として助けた。私は同三十九(1906)年、十二年の勤務ののち三越を退くことになった。
日比氏は帰国すると着々と手腕の冴えを見せて百貨店を経営した。藤村氏も勤勉にそれを補佐した。このふたりの働きぶりにつき元三越常務取締役の林幸平氏は、新著の「続・予を繞る(注・めぐる)人々」の中で、非常に適切に批評しているので、抜粋して大要を記してみよう。(注・一部の表現を読みやすくあらためた)。
まず日比氏については、
「日比さんは三越の専務取締役になると、熱烈な意気ごみで全店員をひきいるとともに、なるべく店員を株主にして、多くの店員の中に隠れた才能を持つ人がいないかと、のどの乾いた者が水を求めるように目を光らせた。あるとき日比さんは店員を集め、このように言った。『商店というものは、入口の管理が大切である、まず入口で、下足番が気持ちよく来客の下駄を預かり、出口の下足番がまた愛想よく客を送り出せば、その快感によって、多少の不愉快は打ち消されるものである。』このように、まずはきわめて些細なところから注意をはじめ、一事が万事この調子で、すみずみにまで心を配っていた。また、「時好」、「三越タイムス」などという雑誌を発行したり、児童用品研究会を発足させて、将来の顧客となるであろう子供たちに対して、三越というものを印象づけようとするなど、百貨店主として、細心の注意を怠りなく行った。そのような氏は、ついに神経衰弱にかかり、まだ数年もたたないうちに病床につき、昭和六(1931)年二月、みずからが培って大成した花や果実を見ることなく逝去したことは、まことに痛嘆のいたりである。」
また藤村喜七氏については、林氏はだいたい次のように記している。(注・同上)
「藤村喜七氏は伊勢松坂の人で、十一歳のときに三越の小僧になり、六十一歳の還暦を迎えたとき、三越の常務取締役として、勤続満五十年を祝った。旧越後屋の大黒柱の古材で作られた厨司(注・厨子。扉付きの棚)に、純金の大黒天像を納めた記念品を、店員一同から贈られたという、実に模範的な商店員である。
彼は小僧出身であるが、勤勉で、協和性に富み、またよく時勢の変化を理解して、それに順応する才能を備えていた。明治十八、九年ごろ、例の鹿鳴館時代の趨勢を見て、フランス国のパリに行き、洋服の材料を仕入れると同時に、フランス人のホフマン夫人と、そのふたりの娘を雇って帰国し、男女用の洋服店を開業して、当時の旧式な呉服業者を仰天させたこともあった。
氏はまた、商品選びにすぐれており、仕入れ面で最大の功労があった。終生を三越の事業に捧げ、七十余年の高齢で世を去ったことは、東都呉服商店の中で模範的な人物として、おおいに敬意を表さざるを得ない。」
以上の林氏の、日比、藤村両氏に対する観察は、長年、両氏の下で間近に仕えた人物だけに非常に適切なものである。なお私に対しては、先覚者の名のもとに、
「高橋さんは明治三十一年ごろの、眠れるがごとき呉服商売の状態を達観して、一切過去の旧習にとらわれず、営業上、一歩一歩尖端を切って、同業者に多大な衝撃を与えたものである。ゆえに、日本における百貨店の発達史の基礎を知ろうとするものは、まず根本の基礎を築き上げた高橋さんの功績を没却してはならないと思う。」
とある。私は、百貨店事業を生涯の仕事としたわけでもなく、ただ、その黎明期に、通りがかりに少しの助力をしたにすぎない。言ってみれば、諸国廻りの武者修行の者が、途中でのある日に、猫退治をしたくらいの功労に過ぎない。したがって、これを誇る気持ちもないのだが、林君の高評に対しては、ありがたく感謝の意を表したいと思う。
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