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  百二十一 

製糸工場の処分(上巻419頁)


 三井には、明治二十四(1991)年よりも前に政府から払い下げをうけた富岡製糸場と、三十三銀行の抵当流れだった大嶹(注・おおしま)製糸場という二大製糸工場があり三井工業部の所管に属していた。(注・史実では、三井が富岡製場を手に入れたのは明治二十六年)
 中上川氏が鐘淵紡績や王子製紙を拡張したとき、製糸工場も三井の事業として大幅に拡張し、名古屋と四日市に二大工場を創設することになった。
 しかしこの計画は中上川氏のさまざまな拡張計画のなかで、いわゆる千慮の一失(注・思いがけない失敗)に終わってしまった。というのも、本来製糸の仕事は農閑期の工業で、農家が農間に養蚕をして、繭ができると自分たちで繰り上げるというのが従来のやり方だったからだ。上州(注・群馬)、信州、甲州(注・山梨)には多少は大規模な工場がなかったわけでもないが、言ってみれば一家の手内職であり費用のあまりかからないものだったのに、三井のような大きな会社が繭の買い入れから工場の操業までを給与の高い人を使ってやるしくみでは、結果として費用倒れになってしまったのである。
 特に明治三十二、三(18991900)年ごろは製糸の商況が悪かったので中上川氏も持て余していた。そこで私は中上川氏と協議したうえで、かねてから親しくしていた横浜の原富太郎(注・三渓)氏に交渉し、富岡、大嶹、名古屋、三重の製糸工場を、総額でいくらだったかははっきりとは記憶していないものの、とにかく十か年の分割払いで譲渡することになった。

 原氏は日露戦争後、この工場で大儲けをしたこともあったが、その後そうとうな損失を招いたこともある。大家が経営することが非常に困難な工業であるようだ。三井がこれを処分したのは私が三井呉服店在勤中で、中上川氏がまだ生存中のできごとであった。



絹糸工場の合同(上巻420頁)


 三井が三十三銀行の抵当流れとして引き取った物件のなかに、新町絹糸紡績工場と、前橋の同工場のふたつがあった。絹糸紡績というのは屑繭から糸をつむぐ工業のことで、日本においてはフランスの工場にならって建設したものである。中上川時代には、やはり三井工業部の所管に属しており、柳荘太郎氏が主任者として苦心して経営に当たっていた。
 その工業部が三井呉服店と合わさったので、私は明治三十五(1902)年ごろからその工業の全国的な合同計画に当たることになった。当時、経営が困難だった岡山、京都、程ヶ谷の三つの絹糸紡績工場をまとめ京都を本社にして団結する協定が成立したので、藤田四郎氏を社長に推し、私も取締役のひとりに加わった。
 それ以降かなりの成績をおさめ続けていたが、日露戦争のあとに諸工業が景気づいて、この合同絹糸紡績会社の株が払込の倍額以上に達した。もともと工業関連には執着をもたない三井では、これをだんだん売却し、約百万円ほどの利益が出るまでに売りつくした。
 この件が落着すると、私は三井から感謝状とともに金一封の褒美を頂戴した。そこで、当時の住まいであった一番町の家の東北部分に能舞台を造ることにした。それを稽古場、兼、運動場にした。しかしほどなく私の先妻が死に、ある人の説によると、これは鬼門に向かって能舞台を建設した祟りであるということであった。また私邸に能舞台を造るということは、昔であれば大名でなければなし得ないことで、三井の奉公人としては僭上の沙汰(注・身分をわきまえない贅沢)だと言いまわる人も出てきた。

 いずれにしても、あまりいい考えではなかったようである。しかし一生のうちに一度、自宅に能舞台を造ったというのも、私が趣味にふけった生活を送った一端を示すもので、必ずしも意味がなかったとは思わない。この舞台は、震災前に観世流の橋岡久次郎氏が引き受け、今でも赤坂榎坂町の橋岡方に残っている。



三越呉服店の独立(上巻421頁)


 上記の製糸、絹糸の両工場の処分に続き、私が三井在勤中にうまいぐあいに整理することができた案件は、三越呉服店のちに、三越と改称の独立であった。
 当店は明治二十八(1895)年に私が改革に着手したころから、三井営業店として経営するべきではない、という議論があった。しかし当時の老主人のなかには、少年時代から同店に勤めていた者もいたし、また先祖が始めた事業として二百年あまり継続してきたのだから、という意見もあり、いずれにしても一度改革したうえで、あとのことを決めようということになっていた。
 まずは販売法を西洋百貨店方式に改め、それから十年の歳月がたったので、主人連中の考えもすでに変化しており、今では、処分することに反対する者もいなくなっていた。そこで、当時三井管理部の首脳であった益田孝男爵からの発案で、三井呉服店を三井から分離し五十万円の株式会社にすることになった。そしてこれを、高橋、日比(注・翁助)、藤村(注・喜七)、益田英作の四人に、それぞれ五千株ずつ持たせ、他の五千株を三井関係者から募集した。
 店名も三越呉服店と改め、明治三十七(1904)年にはいよいよ独立して株式会社となり、日比翁助が専務として海外の百貨店の情況視察にあたった。そして同三十九(1906)年には、日本の百貨店の先鞭をつけて今や資本金三千万円の大事業会社になったのである。


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