百二十 元禄模様の流行(上巻415頁)
私は以前にフランスのパリに旅行したとき、洋服店が毎年のように洋服の新作を出し、単にパリだけでなく、ヨーロッパだけでもなく、遠くアメリカの流行にまでも影響を及ぼしているということを聞いた。祖母の着たものを孫娘が受け継いだりすることさえあるわが国では、まったく考えも及ばないことだった。貧富の度合いが違っているからでもあったからかもしれないが、世界の競争から取り残されたような島国の日本では、人はそのようなことに無頓着で、のんびりしているためだろうと思われた。
もっとも徳川幕府の盛時には、おりおりで衣服の流行が変化し、人気俳優や、評判の妓女たちがその手本になったということはある。あの市松模様(注・江戸時代の歌舞伎役者、佐野川市松がはやらせた)であるとか、菊五郎格子であるとか、何々絣という名前があることからもわかる。
しかし維新の変動は、極端にひとびとの気持ちを萎縮させ、かんたんにはもとに戻らず、そんなわけで衣服の流行などを気にする者はいなかった。
しかし日清戦争後の景気拡大で世間では好況が来たと騒いでいたから、私は、あの伊達模様というものを染め出して、はやらせてみようと試みた。だがまだ時期が早すぎて、そのときはあまり反響がなかった。
そんななかで日露戦争が始まった。まもなくこの戦争は大勝利のうちに終わり、今度こそ三井呉服店が奮発し、明治ごのみの新しいもので衣服の模様の流行のさきがけになり一世を風靡してみようと思い立った。
それに先だち私が三井呉服店を改革し始めたとき、新たに意匠係というものを設置していた。そこに何人かの画家を招き、新しい模様をデザイン(原文「立案」)してもらうと同時に、古い絵画を残らずあたり、優れた衣服の模様を収集していた。古いところでは古土佐、住吉派にはじまり、又平(注・岩佐又兵衛)、宗達(注・俵屋宗達)、光琳(注・尾形光琳)、新しいところでは、師宣(注・菱川師宣)、春章(注・勝川春章)、歌麿(注・喜多川歌麿)、雪鼎(注・月岡雪鼎)、栄之(注・鳥文斎栄之)にいたるまで、なんでも図柄のおもしろいものなら、風俗絵巻であろうが、小袖屏風であろうが、はては春画までをも、くまなく写して、模様集帖(注・デザイン帖)を作っておいたものがあったのである。これを実地に応用するのは、まさにこのときだと思われた。
かねてより古老から聞くところによれば、世間の景気がよくなるときは衣服の模様が派手になり、不景気になるときは概して好みが地味になるという。日本は今や戦争に勝ち世界屈指の大国となり、好景気到来がしきりに叫ばれる時期だったので、世の人の好みも派手になり、自然に大がらな模様が歓迎されていた。元禄時代が再来することは、もはや疑いをいれないと思われた。
そもそも徳川の元禄時代は、関ケ原の戦いが終わり、大阪も落城し、弓は袋に、刀は鞘に収まった元和元(1615)年(注・大阪夏の陣の年)から七十年の歳月がたったいる(注・元禄時代は、1688~1704年)。しかし明治はまだ四十年弱しかたっておらず、維新後まだ非常に日が浅かったが、鎖国をやっていた昔とは違い時代も駆け足で進み、このあたりで元禄時代が再現されてもいいころだろうと思われた。
そこで私は、例の模様集帖から、もっともすぐれた模様を選び、まず十数種類の衣装をこしらえた。
次に元禄花見踊りという曲を作り、新橋の人気芸者から踊り手と地方(注・じかた。音楽の演奏者)を選び、ひとつの舞踏団を組織した。その踊り手のなかでは、のちに伊井蓉峰の女房になった叶屋清香や、河合武雄の宿の妻となった栄龍などが光っており、たちまち東京中の大評判になった。のちにその当時のことを書いた実録に、つぎのような記事がある。(注・内容を多少わかりやすくなおした)
「元禄衣装というのは、最初、新橋一流の歌妓である松寿、清香、五郎、栄龍、ひさ、実子などが、めいめいに別々の意匠をこらして、帯や紐はいうまでもなく、髷の結い方や、櫛、笄(注・こうがい)の好みまで、それぞれに昔の型を追ったものだった。その発表の方法としては、高橋箒庵の書きおろした新曲である元禄舞に、杵屋勘五郎が節を、藤間勘右衛門が振りをつけたものがあった。それが、三井呉服店が三越呉服店と改まった三十八(1905)年の春から、浮世絵そのままの姿で交際場に現れたので、雑誌も新聞も筆をそろえてこれを報じたのだった。戦争以来さかんに流行していた絵葉書の図柄にもなり、それが八方に飛んだ。また歌舞伎座の三月狂言の、大切の所作事(注・舞踏)にも元禄踊が演じられた。流行はほどなく大阪南新地にも伝染し、戦後には、人心が華麗で大きなものを好む傾向にあったから、元禄模様は、単に衣服や髪飾りだけでなく、調度器具、日常全般の品々にまでおよんだ。この流行に乗じて、元禄の名を冠するものは、元禄櫛、元禄下駄、元禄足袋、元禄煙管、元禄団扇、元禄手ぬぐい、元禄ネクタイ、元禄友禅などなど、数えきれないほどだった。そのうえ、元禄料理の再現が試みられ、元禄出版の古書籍が値上がりし、また元禄研究会が作られ、これに関する著書も刊行されるという具合で、このころの元禄流行は、実にすさまじいものだった。」
元禄模様のはじまりは、私が三井呉服店の理事を兼任していた明治三十七(1904)年からで、翌年には同店が組織を改め三越呉服店となり、その翌年の三十九年に私が同店を去るまでも流行は一向に衰えなかった。戦後の景気拡大がようやく沈静化した四十年ごろまで、その勢いは継続したのである。これは明治時代の風俗を語るうえで特筆すべきことがらであると思う。
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