【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針

百十九  箒庵と箒の歌(上巻411頁)


 私が明治三十一(1898)年に麹町一番町五十五番地に新宅を建て、京都大徳寺に塔頭(たっちゅう)のひとつである寸松庵の茶室を移築したということはすでに前に書いた(注・92「寸松庵開き」を参照のこと)

 もともと私の住まいに対する考えはちょっと普通とは違っている。なぜなら、私は旧水戸藩の貧乏士族の四男坊で宗家に対する責任が何もないし、足手まといになるような縁者もなく独立独行、勝手次第の身分なので、住まいについても非常に楽観主義だからである。

 第一には自己の趣味を満足させることが重要で、次に現在の社会的な身分に応じてそれに必要となる設備を整えようとしたかった。私が聞くところによると西洋の実業家は、全財産の三割を住宅に充てるのを原則としているそうだ。しかし私がもしこの基準どおりに自分を満足させることができるような住宅を造ろうとすると、一生かかっても実現不可能となってしまう。

 そこで私は、西洋の実業家の基準を逆にして、あえて借金まではしないとしても当座の持ち合わせの財布の底をたたいて、まず自分の趣味にふさわしい家を造り、かつそこに住み、かつ楽しむことにした。もし維持困難になったときにはただ処分すればいいだけというわけで、ほかの人の手本になるようなことは一切ない、のんき千万の箒庵一流の住宅経営法を採用したのである。
 このような楽観主義のもとに、私は自分の趣味を満足させるような様式を選んだ。皇居(原文「宮城」)
の森の一部を見渡す高台の、一千坪の四角い土地に家を建てたのである。当時の私の身分からすればほとんど不満のないものだったが、三、四年たつと物足りないような感じがしてきたので、西南の一画に三百坪の空き地があったのを利用し新しい茶室を建てることにした。

 寸松庵が三畳台目だったので、今度はもっと狭い侘茶の茶席を作りたいと思い、京都東山の西翁院のなかにある藤村庸軒ごのみの、淀見の席という三畳敷きの茶室を模造した。

 この席は洞床(注・床の間の間口よりも内部が広いもの)で、二畳を客座に、一畳を主人座とし、その間に、太鼓張り(注・骨組みを囲むように紙を張ったふすま)の二枚引きを立てた。炉は向切(注・むこうぎり。小間の炉の切り方のひとつ)で、左手の窓をあけると淀川の景色が手に取るように見えるので、この庵の名前がついたのであった。
 庭は、おおむね塩原箒川の景色の写しであった。奈良の古石、もしくは筑波山の山石を寄せ集め、大石のあいだから一筋の滝を落とし、京都から取り寄せた台杉で庭の半分を覆い、木の間がくれに、ちらちらと水流を見せる趣向だった。
 その後、ドイツ、ベルリンの博物館長キンメル博士が来庵されたとき、この築庭についての話になり、なぜ杉の木で滝の半分を隠すのかときかれたので、これが日本の築庭術で、ものを隠すことで、そのものを大きく見せ、かつ趣を添えることができるからだと説明した。また竹垣などで庭の一部を仕切ることもあるが、これも、世界ををふたつにわけて庭を狭くすることで、かえって広がりをもたせることになるのだと話すと博士は非常に感心した様子だった。

 さようなわけで、はじめは茶室に箒川庵と名前をつけたが、古色がかった円形の扁額にこの庵号を彫刻しようとする段になり、三文字では字形のおさまりがつかない。しまいに川の字をはずし、箒庵の二字としたのである。
 ところが、それがとうとう私の雅号となってしまったので、箒というものに興味を持つようになった。いろいろな関係をたどっていくと、箒に関する故事はとても多い。寒山の箒は言うまでもないが、禅宗では無形の箒で心の塵を払うというし、詩歌でも箒を詠じたものが少なくない。私が所蔵する幅の中にも蕪村の箒画讃があるし、また大口隆正の箒の讃には


   そのままにうちすてておかば掃ふべき 箒にもなほ塵やかからん


というのがある。
 そこで私は、山県公爵の主宰されていた常磐会という歌会で、箒という課題を出してもらったことがあった。そのとき私が詠んだのは  

 

   散る花も紅葉もはきて春秋の あはれを知るは箒なりけり


というもので、幸いにも選歌となることができた。
 このときの参加者諸氏の吟詠は四十八首にのぼったが、そのなかで主だったものは次のとおりである。


   たまさかに朝きよめする乙女子が もてる箒のおもげなるかな


   朝しめり土もにほへる広庭の 箒のあとのここちよきかな


   松かけの庭の苔生をいたはりて 箒は人にとらせざりけり


 第一首は山県公爵の詠じられたもので、これはそのときに満点で選歌になったそうだ。四人の宗匠の投票で、三点以上は選に入り、四点だといわゆる満点の名誉を得るのである。公爵は大喜びで、選歌の会場だった目白椿山荘の廊下に飛び出して夫人を呼び、「お貞、お貞、己れのが満点になったぞ」と報告されたそうで、ふだんは謹厳な公爵からすると、めったに見ることのできない図であったとは、宗匠のひとりだった井上通泰博士から直接きいた話である。
 さて箒庵であるが、私から中井新右衛門氏に譲り、大正癸亥年(注・みずのといどし。大正十二年、1923年)の震災の火災で寸松庵とともに烏有に帰した(注・全焼した)。しかしながら、私が丹精をこめたものだったから、ここにその建築の由来を語り、あわせて私の雅号と箒の歌の由来を付記した次第である。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ