百十八
日露戦争の衝動(上巻408頁)
維新後六十年余りにおいて何が一番激しく日本国民にショック(原文「衝動」)を与えたかといえば、誰もが異口同音に日露戦争と答えるだろう。
しかし、その心配が一番強かったのはむしろ宣戦布告までのあいだで、旅順襲撃の口火が切られてからは、皇国一体、死なばもろともと覚悟したためか度胸が据わり、かえって気持ちが軽くなったようである。とはいえ実地戦局にあたっての国運を双肩にになっていた軍人の心境は、はたしていかなるものだったろうか。私はそのことを思うたびに、粛然として感激の念に打たれるばかりだ。
日露戦争が、幸いにも海陸ともに勝利を得たからよかったものの、もし反対に敗北していたら、わが国は果たしてどのようになっただろうと想像すると今でも身の毛がよだつような感じがする。
明治三十八(1905)年奉天戦争の直後、児玉(注・源太郎)大将が政府の要人と相談するためにしばらくのあいだ帰京されたとき、三井家のひとびとは慰労の気持ちを表すために、ある晩伊藤博文公爵らとともに大将を三井集会所に招待したことがあった。
そのとき児玉大将が洋館の広間に入ってきてキョロキョロと席を見回したその目を見ると真っ赤に血走り、神経が極度に興奮している様子がうかがわれた。彼が日露戦争の参謀長としていかに心労したかを如実に物語っていた。
当時奉天戦の前後の様子を熟知していた軍人から私が聞いたところによれば、総司令官の大山(注・巌)元帥は、奉天戦がいよいよ迫ってきたときになっても泰然として、まったく動じる気配がなく「勝戦のことは、児玉さんに任せてあるから、俺どんは何も知らないが、しかし敗戦となったら、俺どんが出て引き受けるつもりだよ」と呵々大笑(注・高らかに笑う)されたということである。皇国の興廃を決める大戦を前にして、大山元帥の沈着ぶりはいかにも見上げたものであるが、その作戦の全責任を負っていた児玉大将の心労は、はたしてどのようなものであっただろう。大将がその後まもなく脳溢血で急死したのは、まちがいなくこの過労の結果で、完全に国に殉じたといってよいだろう。
その急死について杉山茂丸氏の語るところによると、当時杉山氏は大将に報告することがあって大阪から参謀本部に電報を打ったが、その文言に諧謔(注・冗談)をまじえてあったのを大将はベッドの上に寝転んだまま読み終わり、大笑いしたその瞬間に溢血(注・いっけつ=出血)したので、電報用紙を片手に大口を開いて、笑ったまま死んでいたのだそうだ。
とにかく、この戦争の最初に国民の心配の程度が大きかった分、吉報が来るたびに喜ばしかったその度合いは無類に大きかったものだ。このような気分は、この大事件に直面した人でないととうてい感じることができないだろうと思うので、ここに書き残しておく次第である。
戦後の気分(上巻410頁)
日露戦争が国民に与えた衝撃が特別に大きかった分、戦後の気分は、口では言い表せないほどにのどかなものとなった。とくにこの戦争中に参謀総長であった山県有朋公爵などは、その双肩にかかった重荷をおろした心地がして、さぞかし愉快な気分になったことだろう。
明治三十九(1906)年七月下旬、大磯の別荘である小淘庵にいた山県公爵は、ある日夫人同伴で鵠沼の益田別荘に来遊された。私は主人の鈍翁に誘われて公爵と清談(注・趣味、芸術、学問などのおしゃべり)をともにしたあと、とうとう別荘に宿泊することになってしまったが、翌朝公爵は寝室にあてられていた二階の窓から富士山を見て、
目なれてもめでたきものは朝窓に おちくる富士の高根なりけり
という和歌を詠まれた。そのとき私が公爵に対して非常に強く感じたのは、そのきわめて謹厳な態度のことなのである。私たちは別荘に滞在しているのだから、風呂上がりには着流しに三尺帯などを締めているのだが、公爵はいかなる場合においても袴をつけていないことがなく、談話がどんなに長くなっても脇息に寄り掛かるくらいで膝ひとつ崩さないのである。これは持って生まれた人格というもので、努力しなくてもこうなるのだろうと思われた。
このとき公爵には、小田原に隠居所である古稀庵を造る計画があった。明けて四十(1907)年の一月に私に手紙が届き、その後私がご覧にいれた家屋の図面が非常に気に入ったということ、また小出粲、高島九峰のふたりが来訪したので、新年の歌を二、三首詠みだされたことなどが書かれており、末尾に次に二首が書き添えられていた。
去年も来て遊びしところ年立てば また新しき旅路なりけり
つづみ打つ声面白し万歳の うたひ出でたる門松のかげに
日露戦争後、古今にも稀なるおめでたい新年を迎え、門松のかげに万歳(注・まんざい芸人)の鼓の音を聞くのどかな気分は、私たちの生涯で二度と感じることができないものではないかと思う。
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