百十七 目白椿山荘講評(上巻404頁)
私は明治二十三(1890)年に山県公爵に初めて会ってから、ほどなく三井に奉公して多忙になり公爵をあまり訪問することがなかった。公爵も日清戦争から日露戦争にかけて種々の政務があったので、この間は双方ともに接触する機会が少なかった。
明治三十五(1902)年の春、公爵は一番町(注・高橋箒庵の一番町邸)の寸松庵茶会に臨まれ益田克徳氏と同席された。そして翌年の同じころに克徳氏が鬼籍に入ったので、
まとゐせし去年の数寄屋の物がたり おもかげに立つ花の頃かな
という一首をたむけられた。このとき公爵は益田克徳氏の設計した寸松庵の庭を見てさまざまな品評を試みられたので、私も同年の秋に目白の椿山荘を訪問し庭前の紅葉を愛でた。
公爵が、この庭に対する私の所見を求められたので私は非常に当惑した。これはきわめてむずかしい役目なので、なるべく避けようとして「椿山荘の秋景はすでに賞玩したけれども、まだ春の様子を拝見していないので、追ってこれを拝見したうえで卑見を述べたい」と言い逃れをしていた。ところが明治三十八(1905)年の奉天戦が終わったばかりのとき、突然、私は次のような手紙を受け取った。
花の頃山荘を訪ふべしとの約もあれば、昨朝風光真情を
ここもまたなかば咲きけり我が山の 花こそ今は見るべかりけれ
など詠み出し、馬に鞍一鞭、直に走らせ可申と存じながら(注・馬に飛び乗って、うかがうべきところ)、軍務に取り紛れ、今朝に至ればすでに満開、急報に及び候、ゆるゆる御眺め講評を煩わし度、老生は残念ながら本営にまかり出で、御待ち致さず候、余事在面晤 早々不一
四月十三日 椿山荘主朋
高橋雅兄座下
このころ公爵は参謀総長で、戦争関連の仕事でいつもに増して忙しく参謀本部に近い五番町の別宅を使い、椿山荘には帰らず、
針金の糸のひびきに戦ひの つつの音さへ聞く心地して
と詠まれたような時節であったのに、椿山荘品評の約束を忘れず私にこのような風情ある書状を寄せられたという余裕しゃくしゃくぶりには、槊(ほこ)を横たえて詩を賦した(注・戦いのための矛を置き、詩作した)という古代の名将の故事も思い合わされ、いかにも風流であると感じたので、さっそく椿山荘を訪問した。
公爵はむろんのこと不在だったので、勝五郎という公爵お気に入りの庭師(原文「槖駝師(たくだし)」)の老人が案内に立った。彼は私にいろいろな質問をし、「この庭には、あの主人の気性もあって庭石らしい庭石も置いていないので、おそらくお気に召しますまい」などと誘い文句を発してくる。それで私もつい調子に乗り、「橋もこれでは粗末である。捨石についてももう少し奮発してほしい。」だとか、「書院に近い崖際に柿の木があるのは不似合いだが、もっとも目白の殿様だから柿がお好きなのも当然か」などと、駄洒落まじりの冗談を言ったりしながら、私が胸の内にしまっていたことも打ち明けてしまった。
この日はなにごともなく帰宅したが、その後ひと月ばかり過ぎたころに偶然公爵と同席することがあった。そこで私の椿山荘評をしようとしたところ、公爵が手をふって遮り、「いやいや、君の批評は残らず勝五郎から聴き取った、柿の木がだいぶ気に入らなかったそうだね」と言い出されたので、私は、さてはあの老庭師こそが、公爵から差し回された軍事探偵であったのか、とハタと思いいたったのであった。背中に冷や汗が流れたが、最後にはとうとう大笑いになった。
もともと山県公爵は趣味が非常に多方面にわたっていたが、なかでも築庭は青年時代からの趣味であった。奇兵隊長であったころに、萩城下の閑静な場所に、丸木橋を渡って門前に達するという趣向の小さな家を建てられたこともあるそうだ。
公爵の平素の主張は、「庭というものは、自然山水の縮図であるから、水がないことには趣が出ない、だからおれが造った庭で、天然の水がないところはない」というものだった。その通りに椿山荘もまた水に富み、庭前の池からは天然水が湧き出て、池尻には一条の小滝がかかっている。公爵はあるとき都下にある富豪の庭園を評し、「彼らは庭に水道の水を引きながら、客が来れば水を流し、客が去れば止めてしまうではないか、おれは貧乏人ではあるが、庭の水は年中流しっぱなしであるぞ」と気焔を吐かれたこともあった。
そのような次第で椿山荘は天然水に富んでいるうえに、都下には珍しい老松が池をはさんで相対峙している。雑木がその間に点在し、春よりも秋の紅葉時が優れているようなので私はあるとき、
此庭のあるじ顔なる老松も 紅葉に色をゆづる今日かな
と詠み公爵に見せたこともあった。公爵の庭園趣味についてはまだ多くの美談があるので、後段にて述べることにしたい。(注・245「古稀庵の石と竹」参照)
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