百十六
明治大帝御製(上巻400頁)
明治大帝の盛徳大業(注・すぐれた徳と大きな仕事。聖人君主の理想の姿とされた)はいまさら申し上げるまでもないことだが、和歌のことだけを見ても、古今の歌人のなかでも例を見ないほど多くの御製をお残し遊ばされたことは、まことに畏れ多いことである。
私は田中光顕伯爵が宮内大臣であったころ、当時、所在のわかっていた紀貫之筆の寸松庵色紙十七枚を模写し一帖にしたものを、伯爵の手を経て、大帝に献納したことがあった。そのとき伯爵はこのように語られた。自分は大帝陛下が非常に御歌にご達者なことを聞き及んでいたので、あるとき御歌所に参り、その日に陛下から高崎御歌所長にお下げになった御歌を拝見した。すると、一日で百六十首あったので、ただひたすらに驚嘆するほかはなかった、ということである。
陛下は、もちろん御若年のころから御歌をお詠み遊ばされたようで、明治八(1875)年四月、向島の水戸徳川邸に御臨幸のときには、聖算(注・天子の年齢)二十四歳であらせられたが、当時水戸家に賜った御製は、
花くはし桜もあれどこの宿の よよの心を我はとひけり
というものだった。御若年のころから御堪能であったことがうかがわれる。(注・163「明治天皇御宸翰」に画像あり)
ある人から高崎御歌所長から直接きいた話だというものによれば、陛下の御製は、日露戦争のころから大きな御進境を示されたとのことだ。これは国家未曾有の大変に当たり、御奮起遊ばされた異常なまでも勇猛心が自然に御製の上に現れたのであろうということである。その日露戦争中の御歌としては、
よもの海みなはらからとおもふ世に など波風のたちさわぐらん
敷島のやまと心のををしさは 事あるときぞあらはれにける
子等はみないくさのにはに出ではてて 翁やひとり山田もるらん
などのようなものを次々にお詠み遊ばされたので、高崎男爵は感激のあまり、このような御製を臣民に知らせないのは道理でない、しかし、もし陛下にお伺いすれば、なんと御返事があるかわからないので、自分は御歌所長として責任を持ちこれを発表するのだ、ということで、ありがたい御製を世に知らしめたのである。拝読した者たちは聖慮の広大で深遠なことに感泣したが、これがいわゆる「天地を動かし、鬼神を感ぜしむる(注・「詩経」の一節。感ぜしむる=感動させる)ようなもので、国家の隆運に無限の影響を及ぼしたことであろう。
言の葉のまことの道を月花の もてあそびとは思はざらなむ
とのたまったように、御製というのは、つまり陛下の直言であるから、国民は真の勅語としてこれを心にとどめて忘れず、万世の亀鑑(注・手本)として仰ぐべきものであると思う。
高崎御歌所長(上巻402頁)
御歌所長の高崎正風男爵は薩摩の出身で、維新のときには西郷、大久保らと国事に奔走した志士である。同じく薩摩藩士で、香川景樹の流れをくむ八田知紀に学び、明治歌仙の中で随一の存在である。
明治十六(1883)年、徳大寺侍従長が明治天皇の御内意を受け、当時の歌仙十四人から近作の三十首を奉らせた。作者の名前をかくし無名投票をしたところ、その結果で最高点を得たのが高崎男爵、次点が伊藤祐命、その次が小出粲【つばら】だったという。
当時の最高点を得た男爵の和歌三首は次のようなものである。
馬上見花
のどかにも見つつゆくべき花かげを いさめる駒に乗りてけるかな
述懐
言の葉の誠のたねとなりぬべきを さな心はいつうせにけむ
晴天鶴
青雲のかぎりも見えぬ大空に つばさをのべてたづ鳴わたる
聞くところによると、男爵は明治天皇の御製を拝見するようにという仰せをこうむったとき、みずから御前に伺候して、和歌をつれづれの友と遊ばされることは、まことにありがたいことだけれども、御嗜好のあまり、ご政務の差し障りにならないように、あらかじめ願い上げ奉ると申しあげたうえで、それをお受けしたのだそうだ。
私は明治十七(1884)年ごろ、親友の渡邊治とともに、「仮名の会【会員に伊沢修二、後藤牧太氏などがいたと記憶している】」にはいり、当時その会場になっていた数寄屋橋外の地学協会に出入りすることがあった。高崎男爵もときどきこの会に臨席されたので、さいわいにその謦咳に接する(注・声を聞く)機会を得た。私の目に映った高崎男爵は、威厳があるが荒々しさはなく寡黙で上品であった。かの俊成卿(注・藤原俊成)という人は、このような人ではなかったろうかと思われ、詠みだされる歌にも正統的な雅びさがあるにちがいがいないと思われた。
私は明治三十一(1898)年に、はじめて栃木塩原に遊んだ。そのとき高崎男爵が、奥藍田、益田無為庵(注・益田克徳)と並んで、東都紳士として、この地におよんだ草分けであったということを知った。
男爵の別荘は箒川の上にあり、そこで男爵が詠まれた即興の歌は今では世間に伝唱され、塩原の風景に一段の光彩を添える趣がある。全景を詠じたものでは、
もみぢ葉のさかりに見れば常盤木は まばらに立てり塩原の里
というものがある。また、兄弟の滝の歌としては、
いつ来ても同じ声してむつましく 語るに似たり兄弟の滝
というものがある。これらの示す典雅の格調を見ても、おのずとその作者を見るような心地がする。明治時代に、このような歌仙が御歌所長としてその歌壇を荘重にしていたということは、まことに聖世の偉観であったと思うのである。
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