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百十四  茶人失策談 中(上巻393頁)


 茶室の中では、主客のあいだで思いがけない馬鹿げたことが起こり、頤を解く(注・おとがいをとく=あごがはずれるほど大笑いをする)ことも少なくない。どのような大家であっても、猿が木から落ちるような失敗がない、ということはない。そうしたことが世間に知らされたとしても、別段、人格に傷がつくわけでもないし、聞いた人は哄笑し当人は苦笑する程度の一座の座興になるに過ぎないので、ときどきはこうしたことを書いてみようと思うが、一度にやろうとするとあまりに煩雑なので、ここではまず、明治三十五(1902)年から四十四(1911)年までの十年間のエピソードから、なるべくおもしろいものをすっぱ抜くことにしよう。



 馬越化生翁の口禍


 明治三十八(1905)年、馬越化生が還暦を迎えた祝賀茶会が、そのころ根岸の御行の松(注・おぎょうのまつ)のかたわらにあった流水庵で開かれた。そのときには、東方朔(注・前漢の政治家)の長寿にあやかり、交趾桃の香合使われた。

 その香合がすこぶる名品なため、ある来客が翁にその伝来を尋ねた。すると翁は、「これは以前に益田鈍翁から贈られたものだが、いままで使用する機会がなく、今日はじめて取り出したのである」と言われた。座客一同は大いに驚き、「このような名品をむざむざとあなたに贈られた鈍翁の心中は、はたしてどのようなものだったのでしょう、さぞかし名残惜しかったでありましょう」と言い合った。翁は得意さのあまり、つい口をすべらし、「いやいや今の鈍翁ならばそうかもしれないが、そのころは彼もまだ『コレでゲスからネ』」と左手で両目をかくす仕種をした。
 それを面白半分に鈍翁に密告したものがあり、鈍翁は胸に一物(注・秘めたる計略)を持った。そして、これは聞き捨てならない化生翁の一言ではないか、あの香合が貴重なものであることを知らなかったはずがなかろう。無二の親友に対し、粗略な贈り物もできないからと、あのような名品を譲り渡したのに、その好意をくみ取らず、さような放言をするとはもってのほかである。今後茶道上の交際は、断然お断りしなければならないと馬越に言い送った。馬越翁もこれには困ったが、さりとて、どうすることもできず、一年あまりをむなしく過ごした。
 碁敵、ならぬ茶敵とでも言おうか、憎さは憎し、しかし会いたし、ということで、馬越翁はある機会をとらえて和解を試み、失言の代わりに、鈍翁に何なりとも一品を譲りたいと申し込んだ。
 すると鈍翁は、待っていました、とばかりに、それでは相当な代価を払うことになるが、当方の望む一品をお譲り受け申す、もともと口の罪から起きたことだから、口のある品物がふさわしいだろう、ということで、馬越家の有名な粉引の徳利を、と所望された。馬越翁も、さては一本取られたか、と一時は驚いたが、茶人の一言は金鉄のごとしであると、とうとう承知して、ふたりはふたたび無二の茶友となるに至ったのである。



 小倉色紙の用法


 小倉色紙が天下の重宝として、千鳥の香炉や菊一文字の短刀とともにお家騒動のたねになるようになってからというもの、茶人のあいだでもそれを愛でる気運が高まった。
 昔から、この色紙のじょうずな使い方により非常な名誉を得た者もある。利休がある茶会に招かれたとき、まだ待合にいたときに相客との会話がその日の掛物のことになった。「今日の露地の風情が、落ち葉をそのままにしてあるところを見ると、前から聞き及んでいた小倉色紙の八重葎(注・やえむぐら)の歌を掛けられるのではなかろうか」と言われたが、入席してみると案の定そうであったそうだ。

 明治三十八、九(19056)年ごろ、故加藤正義翁は元園町の半蔵庵の茶会で、小倉色紙の一種であるといわれる類色紙を使われた。この歌は、例の有名な、


  八重葎しげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋は来にけり


であったから、一座の賞玩もすさまじかった。さて中立のときに露地に出て、茶室の屋根を見上げると、ピカピカとした銅瓦で葺かれていたので、これでは八重葎が茂ることもできないだろうにとささやく者があった。すると客のひとりが、紅塵十丈(注・ほこりっぽい都会、わずらわしい世俗)の市中を野原に見立て、銅瓦葺きの茶室をあばら家と思わせるのが、主人の趣向である小倉色紙の功徳も、このあたりにあるのではないかと弁護した。一同は顔を見合わせ「なるほど」とは言ってみたものの、果たして心から納得したかどうかはさだかではない。


 完全無欠居士


 加藤翁についてはもうひとつの有名なエピソードがある。翁の茶器の好みはきわめて潔癖で、疵物(注・きずもの)は一切買わないという主義だった。青磁、祥瑞、仁清といった綺麗物を好み、所持品のほとんどが完全無欠であったことから、ある人が翁に対して「完全無欠居士」の尊称を奉った。
 その後翁が茶会を催したとき、なにがあったのか、左の親指を怪我し、白布で包帯をしておられた。それを見た茶客の中のひとりが茶目っ気を出し、


   完全無欠ただ指にきず


と一句、口ずさんだ。これがいよいよ居士の尊称を裏書きするものだとして、この話は当時の茶人のあいだに広く伝わっていったものだった。


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