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百十二  長唄研精会来歴(上巻386頁)

 明治三十五、六(19023)年ごろ、東京で長唄研精会が発足した。これは邦楽復興の黎明期におけるひとつの大きな警鐘だったと思う。従来わが国の音楽はたいていの場合、演劇の伴奏をつとめるものだったから、長唄、義太夫、豊後節の諸流の専門家は、いずれの場合も劇場に出演していた。
 しかし研精会が発足したころの長唄界では杵屋正治郎が大きな勢力をもっており、芝居に出演しようとする者はまず彼の指示を仰がなくてはならなかった。従って家柄、年功などが重視され、嚢中の錐(注・才能のある人)も、その鋭い刃先を見せる機会とぼしかった。
 そのような情勢に不満を感じていた長唄青年新進組が研精会の発起人になったのである。吉住小三郎、二十六歳、稀音家六四郎、二十八歳で、その傘下に集まった小三蔵(注・吉住)、二十五歳、小四郎(注・吉住)、十七歳というのを見ても、長唄界に新しい旗幟を翻そうという年少気鋭の意気盛んなようすを知ることができるだろう。
 しかしながら、この運動は必ずしも上記のような有志の青年のアイデアによるだけでなく先輩の中にもすでに大勢を達観したののがあったとみえる。小三郎の父である三吉住小三郎が、稀音家六四郎少年が三味線を弾く左の指が非常に巧みなのを見て将来かならず名をあげることになると見抜き、小三郎に向かって「今後、彼と芸術上の夫婦になれ」と言い渡したということもあった。このような先輩の意向もあり、演劇の伴奏であった長唄曲を音楽として一本立ちさせ、その特色を発揮させようと思いついたのではあるまいか。この長唄研精会の来歴について稀音家六四郎は、次のように語っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いに直したほかは原文通り)

 「研精会の第一回は、明治三十五年八月十九日で、日本橋倶楽部開きました。このときの出演者は、唄が七人、三味線が六人、囃子が八人、あわせて二十一人でありましたが、聴衆が一向集まらぬので、第八回目には大会と称して余興を交え、踊りや義太夫や三曲(注・琴、三味線、尺八、胡弓など三種類の楽器の合奏)を加えて、人気を引き立てようと思いましたが、もともと資力がないところに、余興の礼金が多いので、勘定には赤字が出る、催主の顔には青字が出るという騒ぎで、研精会はたちまち受難時代に出会い、第十一、二回頃には、囃子方にも逃げられ、唄が四人、三味線が四人という小勢にはなったが、私共の意気はますます盛んで、曲目六番を語り続けたその時、今の和三郎がひとり三味線方に飛んできたので、私共は勇気百倍、初一念を貫ぬかずんばやまぬという決心をしたのであります。
 研精会は十三回頃から、新曲を発表することに申し合わせましたが、これが世間に認められて、研精会発展の端緒となりました。もしこのときに古曲のみに頼り、昔のままに唄い、昔のままに弾いていて、囃子もただテンテケテンテケとやっていたなら、当会が三百回の演奏を重ねて、今日まで発展することはできなかったろうと思います。しかしてこの新曲が、今日当会で演奏する演目の、ほとんど半数を占めている次第なので、音曲もいつも進歩を心がけなければならないと思います。このようにして研精会は第百回記念会(注・明治44年)に中井桃水(注・半井桃水)、幸堂得知の合作である「百夜草」今日の神田祭を上演し、第二百回には、佐佐木信綱作の「菊の宴」を出し、第二百五十回には、中内蝶二作の「相生の松」を披き(注・披く=ひらく。新演目を上演する)、昭和六年第三百回には、中内蝶二作の「魚籃観音」を出して、このとき唄二十二人、三味線三十人、囃子十六人あわせて六十八人の多人数大盛会になりました。
 このような次第で、今昔を思いあわすと、ほとんど夢のようなことでありますが、さて頭ばかり増えたと申して、決してめでたいことではなく、このなかから名人上手が出てこそ、研精会も将来ますます栄えて、邦楽のために貢献することができるのでありますから、新進の若手連は、私共の少年時代より以上に、今後おおいに奮闘せんことを希望する次第であります。」

 以上の六四郎の述懐のように、長唄研精会の努力は、今日おおいに報われている。しかしながら後進の顔ぶれを見渡して、はたして誰が今の小三郎、六四郎になるだろうかと思うと、いささか心細い感じがしないこともない。新進の人たちも、このへんで緊褌一番(注・きんこんいちばん。気持ちをひきしめて)、時代に合った新運動を起こしていく意気込みを持たなくてはならないだろう。
 


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