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百十一  東明流発端(上巻383頁)

 平岡吟舟翁を家元とする東明流(注・三味線歌曲の流派)は、明治時代に一流派をなした唯一の家庭音楽として最近だんだん世間に広がりを見せていている。派手で上品で変化に富み、しかも大曲よりも短篇のほう気がいている曲目が多いところが当世風であるといえよう。育て方次第では、将来的にも、おおいに発展の望みがあるだろうと思う。
 さてこの流派の家元である平岡吟舟翁は、宝生晋作を師として宝生流を謡われた熈一翁を父に持つ。母は都以中の妹で、一中節はもちろん、薗八、端唄その他の俗曲にも堪能だった柴崎はる女であった。この両親から音楽好きが遺伝し、少年時代にアメリカにいたときには当地の歌曲を口ずさみ、帰国後には本業の余暇に、謡曲や各種の邦楽を究めた。なかでも河東節は、家元の山彦秀次郎についてほとんど全部を習いつくした。そのうえ自ら三味線を弾いたり、諸流の節回しを真似したりして、自分でも作詞作曲を試みたり踊りの振付までもやるという器用さだった。
 そんなわけで、翁が作った小唄で現在も世間に流布しているものも少なくない。毎年の新年には新曲を作り、それを披露するというのが常だったが、それはある時に、某新聞社の依頼で向島八景という新曲を作ったのがはじまりだった。その後、大磯八景、産屋、月の霜夜、三番叟、松の功、石橋、海人、檜垣、紅葉狩、三九年川などに、得意の自己流の節付けをしたものが、いまではほとんど五十曲ほどに達し、東明流の一派をなすことになったのである。この東明流とはいかなるものか翁は次のように説明している。
    
 東明流端書(注・
最初にわかりやすい表現になおしたもの、次に原文を記す

 「自分は、生まれつき音楽が好きで、これまでずっと聞いたり、人に習ったりしてきた。そしてつらつら思う。
 わが国の音楽は、はじめ京都で生まれ、それが次第に東に移ってきた。そのなかで、いろいろな流派に分かれていくにつれ、曲節もさまざまに変化し、それぞれの特徴を持つようになった。しかし、そのなかで、聞いて楽しいものには品がなく、品のいいものには面白みがない。渋すぎたり、甘すぎたりと、一長一短で、全曲を通じて自分の気持ちにぴったりくるものがほとんどなかった。

 そこで、試しに各流派から自分の好きな節だけを寄せ集め、さらに自分で工夫した曲節を加えて、自己流の新曲を作ってみたのである。それを、他流派と区別するために東明流と名付けてみたが、自分は浅学で才能もなく、一流派を創始するなどという、おこがましい野望を持っているわけではない。ただ、自分が好きで、楽しめるような曲を、花晨月夕(注・かしんげっせき。春の朝、月の夜)の自分の楽しみのために作っているに過ぎない。どうか、お手柔らかに願いたい。江児庵吟舟


(以下原文。ただし、旧字を新字になおした)

「おのれ天性音曲を嗜み、年頃聞きもし習ひもして、つらつら惟ふに、我国の音曲は、当初京洛の間に起り、其後次第に東漸して、門流ますます分かるるに随ひ、曲節も亦様々に変化し、おのおの其特長を現したれども、趣味あるものは品あしく、品よきものは面白からず、或は渋すぎ、或は甘すぎ、互に一長一短ありて、全曲悉くおのが心に協ふ者稀なり、因って試みに、各流に渉りておのが好める節のみを寄せ集め、更におのが新に工夫せる曲節を加味して、茲に自己流の新曲を作り、他流と区別する為め、之を東明流とは名けたり、おのれ浅学短才にして、烏滸がましくも一流を創むるなど云ふ野望あるにあらず、唯おのが好みおのが楽む一曲を、花晨月夕の独楽に供するに過ぎず、世の人幸に咎め給ひそ。  江児庵吟舟」


 すでに紹介したように、東明流に、「月の霜夜」という一曲がある。荒木古童の弟子、鎗田倉之助という天才的な尺八奏者がおり、吟舟翁が非常にひいきにしてその人のために作って与えたものだった。処女作でしかも短いものだが、東明流の代表作として同好者にもっとも愛好されているものである。その歌詞を次に掲げる。

    月の霜夜
 小夜ふけて衣うつなり玉川の、岸の枯草さらさらと、霜にふぜいをなやまされ、やるせなみまに生ひ茂る、短き蘆のふしのまに、昨日鳴く音もけふ(注・今日)はせず、妻こ鹿の声さへも、いとどあはれ(注・哀れ)に聞こえける  〽アレあの雁は、何所尋ねてナア、行雲のかげとおもてに姿をうつし、羽袖に月をかくしつつ、顔は見せねど便りはままと、翼にほこるにくらしさ  〽アラ面白の浮世かな、かの邯鄲(注・かんたん)は夢さめて、栄華のほども五十年、年立ちかへる春あれば、又来る夏に秋やきて、冬の寒さに(注・きぬた)うつ、水の流れと清き瀬に、かわるまもなき楽さは、賤が伏屋と人ぞしる  〽さらす細布手にくるくるくると、月の霜夜にわが家をさして、望み叶ひて帰りゆく


 さて音楽はこのところ和洋ともに非常に勢いよく流行してきたが、徳川の末期に清元が起こったあとは、明治の太平の世に新しい流派が生まれたといえるのは、この東明流だけである。

 最近この流派が、家庭音楽としてようやく世間に流行してきた。今では、長唄、常盤津、清元、新内などの、徳川時代から残っている曲が唄い尽くされ、弾き尽くされ、どれも行き詰まりの様相を見せ、新しいもの好きの人情として東明流を習ってみようとする人が多くなっているからである。諸流の専門家の中にも、自流の行き詰まりを感じて、新作に節付けするときに東明流を利用しようとする傾向がままあるので、いたるところで東明流が発展する余地がありそうだ。なのに家元になんの欲望もなく、気の向くままに、ただみずからの楽しみのためにやっていてあまり多くの人に伝授したがらないので、今では、習い手は多いのに教え手が少ないというのが実状で、それがこの流派があまり広がっていかない理由なのである。すこしでも早く、よい専門家の第二世代が生まれ、東明流を広く宣伝し、かつ、続々と新曲を作っていくようになれば、明治時代に生まれた邦楽の一派として、東明流はながく後世に伝わっていくことになるだろうと思うのである。


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