百九
道具界の大鰐(上巻370頁)
日露戦争前後において道具買入の大手筋(注・高額購入者)になり、後年、日本屈指の大コレクターになった二大豪傑がいた。赤星弥之助氏と根津嘉一郎氏である。もっとも赤星氏は明治二十四、五(1891~2))年ごろから道具収集に着手し、根津氏が台頭してきた明治三十五、六(1902~3)ごろにはすでに大家になり道具界の大鰐魚とさえ言われていたほどなので、まず赤星氏から書き始めよう。
赤星氏は明治二十四、五年ごろから道具買収に取り掛かった。世間一般では道具購買力がひじょうに弱い頃のことだったので、前記のように大鰐の異名を取るにいたった。氏がいかにしてその軍資金を得たかというと、日清戦争の前に氏は軍艦の大砲に関するある種の専売特許を得て、これをイギリスのアームストロング社に売り込み、日本から同社に注文する大砲から一門ごとに若干の専売料を徴収した。これで当時の大砲成金となったのである。
大正中期には船成金、鉄成金、株成金といった人が続出して成金もあまり珍しくなかったが、明治二十年代においては大砲成金が唯一の成金であった。しかも道具の値段が安く、名品があちこちにごろごろ転がっていたから、氏のコレクションがすぐに旧大家を追い越すことになったのははじめからわかりきった勢いだった。
赤星氏は薩摩人で、一見するだけでは粗野で豪快な感じで道具などに趣味を持っているとは思われないような人だったが、同国出身で当時かなりの大茶人だった伊集院兼常翁などの勧誘もあったらしく、なんといっても資力が潤沢だったので、ただ大口をあけて待っていれば名器は自然に流れ込んできたので、手を濡らさずにたらふく呑み込むことができたのである。道具買入の最高の好機をつかんだ幸運児だったといえるだろう。
氏の嗜好は、いわゆる八宗兼学(注・分野を問わず多彩)で、仏画でも、古画でも、古筆でも、茶器でも、ほとんどなんでもこいだった。後年になり、氏は私たちに「おれの家には名物茶入が二十八あるよ」と、こともなげに語られたこともある。
氏は麻布鳥居坂の井上侯爵邸を買い取り、自分で大徳寺孤蓬庵の山雲床(注・さんぬんじょう。四畳半台目の茶室)の写しを作り、おりおりに茶会を催した。そこで豊富な宝庫の名器を手あたり次第に飾り立てるので、当時の東京では赤星の茶会のように立派な道具が揃っているところはなかったのである。
青磁香炉の裁判(上巻378頁)
赤星氏は背はあまり高くなかったが色黒で頑丈な体格の持ち主で、こと道具談になると、いつも相手を下に見るような、すこし憎らしいところ(原文「憎っぷりの態度」)があったので、当時、土物の鑑定においては東都紳士中のピカ一を自任していた日本郵船会社副社長の加藤正義氏と、ときどき意見が衝突することがあった。
明治三十六(1903)年に大阪平瀬家の蔵器入札があった直後に、赤星、加藤のほかに朝吹英二、山澄力蔵が私の一番町の寸松庵に集まった。茶事も終わり広間で雑談をしているとき、加藤氏が赤星氏に向かって「君はこのまえの大阪平瀬の入札で、飛青磁袴腰香炉を落札したそうだが、君、あれは二度窯であることを知っているか」と遠慮もなく言ったところ、赤星氏は鼻の先でこれをあしらい「君などに青磁のことがわかるものか、あれが二度窯であったなら、おれは君ら目前で真っ二つに打破ってお目にかけよう」と言った。すると朝吹氏が横鎗を入れ、「これはおもしろくなってきた、しからばここに控え居る山澄を審判官として、さっそく法廷を開こうではないか」と言い出した。赤星も無論承諾し、四、五日後、山澄が審判官、朝吹が立会人として赤星邸に乗り込んだ。この二度窯というのは、色が悪いとか、あるいは釉切れがあるとかいう場合に、再び窯にいれてこれを補修することで、今回の香炉もこの方法で不備な点を補ったのだというのが加藤氏の主張なのであった。
さてこの場合、非常に難しい立場に置かれたのが山澄力蔵だった。松王丸の菅秀才の首実検(注・菅原伝授手習鑑の一場面)のように、金札か、鉄札か(注・閻魔様の裁きで、善人には金札を、悪人には鉄札を渡される)、ためつすがめつ、これをねめつけた。そばにいた朝吹氏は春藤玄蕃、赤星氏は武部源蔵といった様相で、一座の緊張は極点に達した。
ややあって山澄は、「この香炉は二度窯と思われる点もないことはないが、それはこの香炉の出来上がった際に行われたもので、日本に来てから二度窯にはいったものとは思われない、どちらの言い分にも、それぞれ道理があるので、引き分けということでいいでしょう」という審判を下した。
これで命拾いした飛青磁香炉は、ようやくその身を全うすることができたが、後年行われた赤星家の蔵器入札の際に、原価とほぼ同額で誰かが落札していたので、赤星氏もさだめて地下で満足していることだろう。
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