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百八  天下仏画の圧巻(上巻373頁)

 明治初年からいあいだ紙屑同然の安値に沈んでいた古書画の値段は、日清戦争後のインフレ(原文「膨張」)によって、たちまち画期的な値上がりを見せた。そうはいっても、まだまだ高の知れたもので、明治三十四、五(190102)ごろまでは一幅が一万円という書画は世間に出ていなかった。ところが明治三十五年になり、初めてレコード破りの一万円の相場が出たのである。
 それは私が、井上世外侯爵の依頼で横浜の原三渓富太郎氏にあっせんした孔雀明王の一幅であった。このころ井上侯爵は、例の書画骨董好きで明治初年から買い集めていた八宗兼学の(注・多彩な)品々が、すでに鬱然たる大量のコレクションになっていた。なかでも仏画は、ほとんど天下一睨みの位置を占めるほどだった。
 ところがまたしても某氏が所蔵する古仏画の虚空菩薩を買収したいというので、それまで所蔵していた孔雀明王を売り払いたいから誰かに世話してもらえないか、というのであった。

 私は虚空菩薩がどれほどの名画であるのかは知らなかったが、仏画として天下屈指の孔雀明王を手放されるのはなんとも惜しいことだと思った。しかし、侯爵からのせっかくの依頼なので委細承知し、まず相談をもちかけたのは益田鈍翁であった。
 鈍翁は、もちろんこの名画の価値を知っているから譲り受けたいのはやまやまだったが、当時としては破天荒の一万円という提示額にいささか尻込みせざるを得ず、ほかに買い入れる人がいなければもう一度考えることにしようという返事だった。

 そこで次に、明治三十一(1898)年ごろからそれまでの文人趣味をやめて、ようやく古画あるいは仏画の分野に足を踏み入れられていた横浜の原氏に交渉してみた。すると原氏は、とにかく一覧してみたいと言われたので、私はかの孔雀明王を井上家から借り出し、麹町一番町の自宅に持ち帰り、原氏が見にられるまでの三日間、広間の床に掛けておいた。
 この仏画の彩色には、すべて鉱物の粉末を使用してあり、夜に電灯の光が当たると五彩絢爛まばゆいばかりになる。その荘厳美麗なさまは、この世のものとも思われないほどだった私は自家の所蔵品のすべてを売り払って、この一幅を所持しようかと考えてみるほどだった。しかし井上侯爵に対する思惑もあり、また商家の使用人の身分として、あまりにも僭越なことだと思いなおし、とうとう原氏を勧誘して井上侯爵の希望どおりに一万円で買い取ってもらうことになった。

 さてその顛末を鈍翁の令弟、英作がききつけた。彼は、兄貴はなんという意気地のないことか、いやしくも数寄者として、あれほどの名画を見逃すことがあるだろうか、こうなったからは、なんとしても、井上侯爵家にある、あれ以上の仏画である、十一面観世音を、この機会に譲り受けるほかはないとうとう鈍翁を説得したのであった。
 英作はみずから井上侯爵を訪問し、孔雀明王を原氏に譲られたのなら、十一面観世音を兄貴に手放してほしい、ただし、代償は、ウンと奮発いたします。きくところによると、あの観世音は三百五十円でお買入れになったそうだから、拙者はそれを百倍にして、三万五千円で引き受けようと思いますが、いかがでしょうかと持ちかけた。
 これには侯爵もびっくりして、それほど熱心に言うなら、ほかでもない益田のことでもあるから望みどおりに任せよう、ということになった。英作は、そのひと言を聞くなり、井上家の道具係に頼んで、さっそく十一面観世音を取り出してもらい、それを小脇に抱えて、芝居がかりの「だんまり」そのままに、「奪い取ったるこの一軸」というような見えの構えをしながら井上家の門を駆け出したという。
 これが、現在益田孝男爵が所蔵する十一面観世音幅である。絹本の画面の長さ五尺五寸五分(注・170センチ弱)、幅二尺九寸六分(注・90センチ弱)、仏体二尺六寸(注・80センチ弱)の、仏画としてもっとも優美なものである。気格が崇高で、筆致も霊妙、いったんこれと向き合ったら、たちまちにしてその威厳、霊感に打たれて、目前に観世音の出現を見るような感覚を生じるのである。

 頭上の正面の三面は寂静の相、左側の三面は威怒の相、右側の三面は利牙出現(注・鋭い牙を見せる)で、後方の一面は忿怒の容、最上段の一面は如来の相をなすという配置になっている。その表情の巧緻なことや、色彩の艶麗なさまから、絶世の作品というべきものである。
 この画幅はもともと大和国(注・奈良)の伝燈寺にあり、龍田新宮の本地仏だったが、のちに法起寺の所有するところとなり、さらに井上家の所蔵になったという。
 この十一面観世音と、かの孔雀明王の二仏画は、いずれも藤原盛時の名画で、後年、上野帝室博物館付属の表慶館で全国十大仏画展覧会があったとき、ともに出品され、ともに天下仏画の五指に数えられ好評を博した。
 このような名幅が、あのような値段でレコード破りとなったのを見ても、当時の状況がおのずと知られるのである。また偶然にも、このような名画の授受に私が関係したことも二度と得難い思い出であるから、ここにこれを記録しておく次第である。


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