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百七   益田無為庵の茶風(上巻369頁)

 益田克徳氏は非黙と号した。無為庵、撫松庵の別号もある。兄が孝男爵、弟が英作氏で、兄弟三人とも非凡な人物ぞろいだった。みな数寄者であったが、なかでも克徳氏は茶人として、また趣味愛好者として非常な天分に恵まれた人物だった。私が生まれて初めて茶席入りをしたのも彼の茶室だった(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)し、また一番町の自邸に寸松庵を移築したときの指揮をとってもらったのも彼だったので、私にとっては常に茶事のうえでの先輩であり、彼から感化を受けたことも少なくない。明治時代において、彼は忘れてはならぬ一大茶人であった。
 彼は東京海上火災保険会社の支配人だったので、かつて欧米諸国の保険業の視察に行き、その帰りにカルカッタに立ち寄り、同地の古物商から一種の広東縞を一巻買ってきた。これは、国王が象の背中にかけたものだと言い伝えられており、それまで日本に渡ったことのないものだったので、益田広東(注・ますだかんとん)と名付けられ、今日でも茶人のあいだで珍重されている。
 また彼はいかにも洒落もので、温和で趣味に富み、工夫が多く、しかも世話好きだったので、彼によって茶味を刺激されて知らず知らずのうちに茶人の門にはいった紳士も少なくない。渋沢栄一子爵、近藤廉平男爵、馬越恭平、加藤正義氏などはみなそうした連中で、兄の孝男爵、弟の英作氏の物数寄も、彼に負うところが少なくないようだ。

 彼は根岸に住み、その本邸の庵を撫松庵といい、別邸のほうは無為庵と号していた。どちらもおもしろい構造だった。渋沢栄一子爵の王子邸茶室も彼の縄張りにかかっていた(注・設計であった)。また、近藤廉平男爵の牛込佐内町の其日庵、品川益田孝男爵の幽月亭、眞葛庵などもそうである。
 彼の茶風は大侘びのきわみで、所蔵の道具は、雑器にいたるまで一品たりとも凡物がまじっていなかった。
 その道具を愛好する熱烈さは、いったん気に入った器物を見ると、五両一分の借金をしても獲得しなければすまない、という感じだった。また、非常に巧思(注・すぐれた発想)に富み、みずから手びねりして作った茶碗の中には、気韻(注・気品、趣がある)のあらわれている名品も少なくなかった。一時期梅澤安蔵が所持し、のちに益田孝男爵に譲った「翁さび」という黒楽茶碗などは、大正名器鑑にも収録されたほどの傑作である。
 彼は、侘び茶の工夫がうまく、毎回おもしろい茶会を催した。それが余りに行き過ぎることなく、茶番狂言になってしまわない範囲で行われるところに、ほかの人には及びもつかない軽妙さがあったのである。

 あるとき撫松庵で、瓢箪茶会というのを催したことがあった。床に掛けた花入は、千宗旦所持の瓢(注・ふくべ)で、その横手には、朱漆で、
   けふはけふ明日また風のふくべ哉
と書きつけられていた。それを見たときには、なにやら彼の人となりを、まざまざと見た(原文「道破した」)ような心地がした。

 そのほかにも、香合、水指、向付、徳利などの点茶懐石道具の一切が瓢箪だった。なかでも瓢箪模様を織り出した有栖川切の袋を掛けた瀬戸大海茶入が使われていたのが、おおいに連客の好奇心をそそった。当時の評判の茶会であった。

 無為庵は、茶道だけに秀でていただけでなく築庭術にも長じていた。彼の根岸御隠殿の庭は、上野の山を庭内に取り入れ、松原の下草に一面のすすきを茂らせていた。これは、彼が所蔵していた寂蓮法師筆の右衛門切に、

       小倉山ふもとの野辺の糸すすき ほのかに見ゆる秋の暮かな

とある歌意を取って、上野の山を小倉山になぞらえ、その趣を現わしたものだった。その侘び趣向が、いかに徹底していたかをうかがうことができるだろう。
 無為庵は明治三十六(1903)年四月、大阪平瀬家の蔵器入札の下見に行こうとして新橋駅に向かう途中、ある旗亭(注・料理屋、宿屋)で休息しているときに突然脳溢血を起こし、五十六歳で死出の山路に旅立ったのであった。私は、

    極楽や花見がてらのひとり旅

という一句をささげた。彼はどこまでも風流な男で、西行法師の「願わくは花の下にて春死なむ」という理想をそのまま実行したのである。
 彼はなにごとにおいてもとても器用だった。字が上手で漫画もうまく、狂歌にいたっては優に堂奥に入っていた。ある年の大師会に模擬店が出ているのを見て、

    おん菜飯天ぷら蕎麦か芋陀羅尼 あな飯うまや何を空海

と口ずさみ、大いに喝采を博したこともあった。
 彼が没した翌年、日本橋の福井楼で遺品の入札会が開かれた。すこぶる名品が多く、現在は兄の孝男爵が所蔵している絵瀬戸茶碗、松虫蒔絵香合、雲鶴女郎花茶碗や、益田信世氏が所蔵している八幡文琳茶入などはその優秀品であった。
 時あたかも日露戦争の勃発する直前で、このような名品ぞろいの入札にもかかわらず、一品で二千円以上になったものがなく、後年の好況時代ならば、おそらく数十万円の売り上げになったであろう売立が、わずかに四、五万円で終わってしまったことは非常に残念なことだった。
 しかし、彼がいつも道具買いの金に行き詰っていたことを知っていた友人たちは、生前にこの金でも持たせてやりたかった、と言い合ったほどだった。私は今日までいまだ、彼のような恬淡にして面白い茶人には出会ったことがないが、今後もまた出会うことはないと思うのである。



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