百六 道具争奪戦の勝敗(下)(上巻366頁)
前項(注・105を参照のこと)で、井上世外侯爵が、福地桜痴の考えた策略で益田鈍翁の牧谿筆の蜆子図を巻き上げようとしてまんまと失敗したこと、また馬越化生翁所蔵の赤絵徳利を徴発しようとしてとうとう目的を果たせなかったことを記述した。これらは井上侯爵の完全な敗戦である。一方、今度は反対に侯爵の作戦がうまくいって、鈍翁、化生翁が敗者になって指をくわえてその奇勝をうらやましがることになったエピソードがある。
それは明治三十四、五(1901~2)年ごろのことだった。深川木場の鹿島清左衛門家で、同族の誰かが三井銀行から借金した手形の保証に立っていたため、その支払いのために道具を処分する必要が生じた。そこで人を介して馬越化生翁に相談したところ、化生翁はかねてより鹿島が道具持ちであることを知っていたので、山澄力蔵(注・道具商)を、鹿島のところにやって下調べをさせた。すると、道具の点数が非常に多いだけでなく伝家の名品が少なからずある。そのうえ、質草に取ってそのまま流れ込んだ大名道具も少なくないことがわかった。
やがて山澄による道具の調査が終わりその評価が定まったところで、化生翁はまずこの宝の山に乗り込むことにした。そして、なかでもいちばんたくさんあった宋、元時代の書幅をはじめとして、名物の勢至茶入(注・遠州蔵帳に掲載)や釘彫伊羅保茶碗などという、かずかずの名器を獲得した。
ところで、そのころ同人のなかで馬越翁が桜川宋元の異名で呼ばれていたのは、翁が芝桜川町に住み、しかも鹿島家伝来の宋元の名幅を多数手に入れたからであった。しかし道具があまりに多すぎてひとりでは買いきれず、かつ自分には不向きなものもあったので、道具数寄仲間の益田鈍翁に耳打ちをし、山澄を手引きにして鈍翁を鹿島家に乗り込ませた。するとこれまた数々の名品を選んで手に入れることになり、両翁とも道具運に恵まれた幸運児になったと有頂天になっていた。
しかし鹿島家には先代からの申し伝えで、名器のなかの名器と言われる三十六点を非売品としこれには初めから手を触れさせぬことになっていたため、両翁ともこれはいかんともしがたく、高嶺の花だと眺めるだけでこれを摘むことはなかったのである。
そんなときに、横から飛び込んでその非売品をひとつかみにして去った者があった。両翁はトンビに油揚げをさらわれたように開いた口がふさがらず、山澄までもが骨折り損のくたびれもうけに終わってしまったのである。その大トンビはほかでもない、井上侯爵なのであった。
それはこうだ。益田、馬越の両翁は鹿島家の宝蔵に飛び込み、たらふく名品を頬張ったが、最初から非売品と決定していた名物の三十六点についてはどうすることもできず、ただ舌なめずりするだけであった。でも、それ以外で自分が欲しかったものはすでに手に入れたということで、もう秘密にしておく必要もなく、化生翁はある日井上侯爵を訪問し、のろけまじりにことの次第を話したのである。
侯爵はその話を何気なく聞いていたが、さて、鹿島家の道具処分に関しては、ほかにもうひとり有力者がいることを知って、その人を案内人にして、化生翁らに気づかれないように、みずからも鹿島家に乗り込んだのである。
井上侯爵の機敏なことといったら、あの賤ケ岳の合戦で豊臣秀吉が、佐久間盛政がまだ陣地を引き払っていないのを聞いて小躍りして進撃したのと同じであった。侯爵は鹿島の主人に面会し、家政整理の状況から不要道具の売り払いの事情までを尋ね根本的な家政立て直しを勧告したものとみえる。とにかく主人も承服して、例の非売品のなかから若干を手放そうと申し出たのである。
つまり、益田、馬越の両翁が高嶺の花と眺めた唐代の絵画の最高の絶品である、東山御物の徽宗皇帝筆桃鳩図や、大名物木津屋肩衝茶入や、瀬戸伯庵茶碗、名物包丁正宗など、稀代の名品がたちまちのうちに内田山に移動して、侯爵が手ずから活ける花となったのである。これらは侯爵の従来のコレクションに加えられて、ここに一段と光彩を添えることになり、侯爵を一躍天下の大コレクターの巨頭にならしめたのである。
この非売品の中には夏珪(注・南宋の画家)の山水堅幅があったそうで、あまりに名品が多かったために井上侯爵が見逃されたということを聞き、私もすこしばかりちょっかいを出してみたが、このとき藤田伝三郎男爵が井上侯爵の許可を得て、四千円内外で買収されたとのことがわかったので、私は遠くから匂いを嗅ぐだけで引き下がることになった。この幅は後年、藤田家道具入札で十余万円の高値を呼んだものである。
とにかく、この一戦においては、井上侯爵に作戦の裏をかかれて、益田も馬越も顔色なかった。惜敗どころか、まったくの惨敗だったといえよう。道具争奪戦における三雄の一勝一敗で、今振り返ってみると非常に興味深いエピソードだと思う。
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