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百五  道具争奪戦の勝敗(上)(上巻362頁)

 道具鑑賞家というものはひとりで道具を楽しむだけでは満足せず、同好者を集めてこれを展示したり、その批評をきいたりして自分の思うつぼにはまったときには、隆鼻三千丈(注・鼻たかだか)でたちまち大得意となるのは昔も今も変わらない。
 だがこの鑑賞家が、たまに争奪戦を演じることがある。たとえば、某家から某品を譲り受けようと内々に手を回し、抜け駆けの功名をなそうとすることがある。そういうときに他に競争者がいると、親しい仲間同士で密約して連合軍を組織する場合もある。
 このような興味をそそる争奪戦のエピソードは昔から数限りなくあるが、太閤秀吉(原文「豊太閤」)が神屋宗湛の博多文琳現在、黒田長成侯爵所蔵】(注・現在は福岡市美術館蔵)を彼から奪おうとした策略計画は、そのもっとも有名なものである。
 それは天正十五(1587)年の太閤秀吉の九州征伐のときのことだった。博多の神屋宗湛の茶会に臨み、宗湛秘蔵の博多文琳を奪おうと、随行の石田三成に言い含めて一計を案じた。急に帰ると申し出るから、宗湛が玄関に送りに出た隙をうかがって三成が博多文琳を懐中におさめて立ち去る、という策略だった。

 太閤は打ち合わせどおりに茶室から立って玄関に向かった。そして三成が来るのを今か今かと待っていたが、すんなり出てこないので、しきりに気にして待ちあぐんでいた。その様子を見て宗湛は、懐の中に入れた博多文琳を見せびらかし殿下の待ち受けておいでなのは、これではございませんかと言ったので、どうやら、この自分をもってしても奪うことはできないようだと太閤は笑って立ち去られたという話である。
 明治の世になり、不思議なことにこれに酷似した出来事があった。ある日、井上世外侯爵が福地桜痴、小室信夫らとともに品川御殿山の益田鈍翁の茶会に臨んだ。床の間に掛けられていた一軸を見ると、それは牧谿筆の蜆子の図だった。これは最近まで福地桜痴の所有だったものだが、彼が金に窮して、残念ながら鈍翁に譲り渡したものだった。その日これを見た桜痴はいまいましさのあまり、なんでもいいから一計をめぐらして持ち主の鼻をあかしてやろうと思った。そこで、内々に侯爵と小室と示し合わせ、侯爵が帰るときをねらってこの掛物を取り外し、その馬車に載せて持ち帰らせてしまおうとした。

 鈍翁は、桜痴の様子がふつうでないのではやくも計略に気づき、侯爵が席を立つと同時に、まず掛物を外して、倉庫の奥にしまってしまった。さて玄関に駆けつけてみると、桜痴は途中で引き返し、いそいで床の間の前まで行ったが掛物は影も形もない。さては小室が気を利かして自分より先に持ち去ったのかと急いで玄関に行ってみると、井上侯爵は馬車の中から覗き見るように福地、小室を待ち構えている。そこでおもむろに鈍翁が馬車のそばに進み出て、閣下の待ち受けられている品物は、先刻土蔵に納めて、今日は間に合いませんので、とくとくお帰りなされませと言った。侯爵は何度かため息を吐き、益田はさすがに素早い奴だと感心されたとか。福地の策略も無念、とうとう失敗に終わったのであった。
 井上侯爵に関する道具談には、もうひとつよく似たエピソードがある。明治四十(1907)年前後、侯爵が内田山の八窓庵でしばしば茶会を催されていたころのことである。今度は赤絵揃いで茶会を催そうということで、向付、肴鉢、水指、建水、花入、小皿、香合などの一切を赤絵だけで組み合わせた。ところが、ただひとつ徳利だけが不足していた。こんなに赤絵が揃ったのに徳利がないのは残念であると、いろいろ出入りの道具屋などに聞いているうちに、馬越化生翁が天下一品の赤絵徳利を所持していることを告げた人がいた。侯爵は非常に喜んでさっそく化生翁を呼びつけ、赤絵揃いの茶会の計画を話した。そして、こうなったからには君の徳利を譲ってくれ、もし譲ることができないなら借用させてもらうだけで差し支えない、と談じ込んだ。

 化生翁の当惑は、ひとかたならなかった。ほかでもない、その徳利は、形といい模様といい寸分も非の打ちどころがない品だったからである。白地の部分は玉のようで、赤絵は花のよう。しかも口縁にすこしゆがんだところがあって、いわゆる綺麗さびの最上の絶品なのである。たとえ世外侯爵の不興を買い、茶道上での絶交になったとしても、これを手放すわけにはいかない。そう決心の腹を決め、この一品は旧持ち主とのあいだで、他に譲渡すべからず、という約束もあり、門外不出としているので、どうか切にご勘弁くださいと、苦しい断り状を出した。化生翁は当分のあいだ、内田山にイタチの道をきめこんで(注・交信を絶つこと)、一年ばかりたって、このやりとりが侯爵の頭から消えた頃から、また出入りするようになったのである。
 それ以来、化生翁は茶会でこの徳利を取り出すたびに、必ず当時の危機一髪状況の演説をして、あやうく鰐魚(注・ワニ)の口をのがれましたと一笑したのであった。私たちも、この徳利のためなら、いかにも、ごもっとも千万と、相づちを打つのを常としたものであ


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