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百三  中上川の業績(上巻352頁)

 中上川彦次郎氏が三井銀行の副長になりその手腕を振るい始めたのは、明治二十五(1992)年の初めからである。二年たって日清戦争が起こり、戦勝による景気でいろいろな計画が持ち上がった。

 朝吹英二氏が整理にあたっていた鐘ヶ淵紡績の株は、一時、十円台にまで下がっていたのが、たちまち払込で五十円の倍額までに値上がりした。
 渋沢子爵の手で三井に移した王子製紙会社や、三井工業部の所管になった富岡製糸場なども、それぞれ隆々たる盛況を呈しさらに規模を大きくした。
 さらに、北海道の事業にも着目し北海道炭鉱会社の株式を大いに買収した。
 東本願寺への百万円をはじめとする貸金についても、とうてい完全には回収することはできないだろうと思われていたものを案外すんなりと回収し終えることができたため、各地方に散在していた多数の支店を閉鎖し銀行の実力をおおいに充実させ、抵当流れの土地なども、たちまち数倍に値上がりした。
 このような好都合がさらなる好都合を呼び、三井の成長の勢いは予想外に大きなものだった。神戸の小野浜で十万坪の抵当流れの一坪一円の地所が、後年に一坪百円以上に値上がりしたというような例も少なくなかった。

 かくして中上川氏の画策は着々と成功し、ほとんど後光が射すような勢いだった。それが明治二十七、八(18945)年から三十一(1898)年いっぱいのことで、彼の業績の全盛期であった。日清戦争後、中上川氏の三井整理がうまくいったことと、戦後の景気拡大が合わさり、計画は着々と成功したため一時は全盛の極点に達した。

 しかし三十二(1899)年ごろから反動が見られるようになり、やがて急転直下の苦境に陥ることになる。これは財界波乱が引き起こしたことで、まったくやむを得なかったと言わなければならない。
 それ以前に、中上川氏は三井の事業統一を提唱した。それまでの三井商店は、銀行、物産、鉱山、地所、工業と、それぞれの部門に分かれ、益田孝男爵のような大人物といえども、その手腕が及ぶのは、物産もしくは鉱山という一局部に限られ、三井全体に及ぶことはなかった。それを中上川氏の入行後、各商店理事を一か所に集め、各自それぞれの議案を持ち寄り、各部の連絡を保ち、これを統一協定とすることになった。益田、中上川の両雄も毎回会議に同席して営業方針を定めたので、当分のあいだはどこにも溝はなかった。
  
しかし戦後膨張の反動が起こったとき、その影響は、まず物産の商売に現れた。大阪支店において原綿の暴落の損失が出ると同時に金融はますます急迫を告げた。
 その救済のために、井上侯爵の口添えで九州方面に三井銀行が貸し出した金を回収しようとしたところ、たちまちにして九州炭鉱業者の不平を招いた。それは、中上川氏と井上侯爵のあいだに自然と溝ができることを意味し、そればかりか、益田氏との関係も絶頂時代のようにはいかなくなった。ここへきて中上川氏を攻撃する声が四面に湧き起こったのである。
 折も折、中上川氏は三十二(1899)年ごろから腎臓病が悪くなり、機嫌も非常に悪く、ややもすると他人の感情を害するような行動も見られるようになった。
 事態が重ね重ねも難局なことに加え、長崎あたりの新聞が三井に恐慌来たるといった内容を掲載したため、関西地方のひとびとが不安視し、明治二十四年の二の舞(注・取り付け騒ぎのこと)が起きそうな状況に陥ってしまった。そこで日本銀行の総裁と協議して、取り付けはほどなく鎮静化した。しかしこのような情勢では各自がその位置を守ることばかりに必死で、他者を非難するというのが人情というものである。それで内部においても、ややもすれば悪口が広がって反中上川の情勢がみなぎるようになっていた。 

 そんなときに、折悪しく、二六新報の三井銀行攻撃事件が突発した。この事件は、かつて三井と取引関係があった三谷三九郎という人の遺族に対し、三井の待遇が非道であるという理由で攻撃の矛先を向けたものだった。しかし三井銀行が簡単には応じなかったため、秋山定輔氏が、「将をたおさんとすれは、まず馬を射よ」の戦法をとり、三井主人の人身攻撃を始めたのである。やがてその攻撃の材料が尽きると、今度は伊藤博文公爵を動かし、伊藤公爵はさらに井上侯爵を動かして、三井と二六の仲裁談が持ち上がった。中上川氏は、ついに城下の盟をなす(注・敵に首都の城下まで攻め込まれて講和の約束をする)ような苦境に陥り、まことに気の毒な状態だった。
 そのころ三井銀行で中上川氏の次官格だったのは波多野承五郎氏であったが、じっさいに各部の重役間の潤滑油になってその調和をはかる役割を果たしたのは、すでに三井工業部の理事になっていた朝吹英二氏だった。外見は磊落で無頓着のように見えるが、実は非常に敏感で苦労性なこの人は、自分が歳(注・まんざい。基本は太夫と才蔵の二人組の芸能)の才蔵役になり、八方融和のために円転滑脱の働きをしたのである。その苦心は非常に大きなものだった。
 このように、中上川は時勢が自分の不利になり、四面楚歌の中に置かれることになったが、このようなときに尻尾を巻いて逃げたり責任を他人に転嫁するような人物ではなかった。最期まで堂々とその運命を自覚し、明治三十四(1901)年十月、四十八歳にして、ついにその短い生涯を終えた。
 しかし彼の没後数年での日露戦争を経て、一陽来復の景気がやってきた。彼の施策が効果を現わしはじめ、今更ながら彼の卓見に感服した人もあったのではないかと思うものの、死者の功績を回想して、これに感謝した者があったかどうか、それはわからない。しかし三井中興の基礎は、彼の三井入りから死去にいたる、この十年間に築きあげられたものなので
ある。彼も地下にあって、みずから慰めるところがあるのではないかと思う。


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