九十九 中上川の半面(上巻238頁)
中上川彦次郎氏はなんといっても明治中期の実業界の偉才だった。私は不思議なめぐりあわせで明治十四(1881)年十一月に初めて氏と面会して以来、時事新報で六年間、三井入りしてからも十年間、机を並べて事務を共にしたので、彼に関する思い出は非常に多い。その中で、今回は風雅的な方面のことを記すことにする。
私が明治十四年十一月に三田四国町の中上川家を訪問したときは、酒井良明氏に駄々をこねて、どうしても貰ってくれとせがみにせがんだ江川氏(注・江川常之助)の娘である新婦(注・勝)と結婚したばかりで、夫婦がお雛様のように並んでいるところは、そばで見ていてうらやましいほどだった。
その当時の中上川氏は色白の長身で、後年のように肥満していなかったから、当世風ハイカラの美丈夫だった。体格の割に声が小さく、ふだんの話し声も喃々(注・小声)として女性のようだった。
社会問題を恋愛関係の例を使ってたくみに解説する傾向があり、あるとき、私とふたりで埼玉の久喜町の演説会に呼ばれたとき、来会者の多くが小学校の教員だったのに、いつものように恋愛的な説明をふりまわした。傍聴者は煙に巻かれたようになって、不思議な演説家がいるものだと唖然とした顔になっていたのがおかしく、また気の毒だった。
氏はまた、ときどき狂歌を詠んだ。このときもまた、往々にして例の恋愛的な傾向が出てきた。一例をあげると、
名古屋の旅宿にて川島某の情妓小六に与ふ
川といふ字を横ちやうに寝かせ 二つ並べて六とよむ
米子と云う歌妓を愛する山田某に与ふ
野に山に選り食う物は多けれど 山田の米にます味ぞなき
などがある。また、三井銀行員の高野栄次郎が鰻飯の重箱を三年間毎日食い続けたと自慢するのを聞いて、
重箱を三年かじる歯の強さ さすが三井の白鼠なり
と詠んだ。これは氏の狂歌の中で、第一の傑作だろう。
氏はまた、ときどき詩を作ることもあって、明治十四(1881)年十月、官を辞めたときの作に次のような一首があった。
面壁会知可九年 此身況又髪猶玄 城南夜々無人到 灯火蒲団学座禅
これには、達磨の「面壁九年」に学んで、十年後の国会開設を待とうという含みがあり、氏の作中ではいちばんおもしろいものである。
中上川氏はユーモアとするにはすこし毒気の多い警句を吐き人を驚かす傾向があったが、ある場合には相手を必要以上に刺激して、はからずも敵を作ってしまうこともあった。
あるとき蜂須賀茂韶侯爵から招かれ、同家自慢の刀剣小道具類がところせましと並べられているのを見て、「さすがにお家柄だけに、たくさん集められましたね」と言ったのは、当家が山賊の親玉、蜂須賀小六の子孫だからだという風刺なので、侯爵は少しも意に介されなかったが、同行した者たちは内心手に汗を握ったそうだ。
また三井家において宮内大臣の土方久元伯爵を招待したときのこと、伯爵の話がたまたま家系図のことになり、「三井家は近江源氏佐々木の支流だということだが、吾輩の先祖は戦国時代に遠州(注・現在の静岡)土方村の城主だったということだ、ところで中上川君の系図は」ときかれたとき、中上川はまじめな顔をして、「私の先祖はなんでも相撲取りで、中上川といったそうであります」と言い放った。せっかくの系図談も、このひとことで腰を折られてしまったとのことである。
また中上川氏が永田町に新宅を建てられたとき、岡本貞烋氏が、ある一軸を持参し、「私はおもしろいものだと思うが、一応、朝吹に鑑定させてからお買いになったらどうですか」と言ったところ、中上川は、「骨董品を買うのは妾を置くのと同じで、他人に問うべきものではない、この掛物は、私が自分で見て、自分でよいと思うので、さっそく買うことにしましょう」と答えた。
またある人が中上川氏に対し、「あなたは非常に聡明で、八面玲瓏(注・どこから見ても無傷)で、ほとんど取りつく島がないが、水清ければ魚棲まずで、あまりに智恵づくめだと人が寄り付かないのではないか」と忠告したところ、いかにももっともだとして、例の恋愛談だけは自分の暗黒面であると言ったそうだ。人は氏を訪問して、話の種が尽きることがあれば、この方面に水を向けて取りつく島を作るのを常としていた。
氏は酒豪で、また例の恋愛談の実行者でもあったから、日本人には稀に見る体格でありながら腎臓病にかかり、働き盛りの四十八歳で早逝した。これはまことに惜しむべきことではあったが、普通の人間が七十、八十までのあいだにやるだろうという仕事を短い年月のあいだにやり遂げたのであるから、自ら振り返っても別に遺憾でもなかったのではないかと思う。
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